読了。
体が軋む音をあげるほど痛いとかそういう話ではありません。
たしかにフィジカルな影響は出てくるのかもしれませんが、
社会的、精神的な側面からの要請やストレス対して、
身体とは誰のもので、どう扱われるのか。
果ては命とはという倫理的、哲学的なお話です。
まず、身体は誰のものなのか。
もちろん、自分のものとは言えますが、
現代ではもはや自分の所有物と豪語する身体を
自分でコントロールすることはできなくなっている。
何か調子がおかしいと思えば医者に行き、その処置に身を委ね、
いくつもの薬を処方され、手術台でメスを入れられることもある。
そんな状態になったのは、身体を管理することを怠るからだ
という自分の身体を客観視する観念も一方にはある。
もっと言うと臓器移植にあたっては、自分の臓器が他人の身体の一部になる。
他人の身体の中にある臓器は誰のものなのなのだろうか。
となると、そもそも「私」って何?
という根源的な問いに突き当たってくる。
では、自分の身体を感じる時とは。
人から見られている時、
介護を受けている時、
母親から見られていることを感じる時。。。。
誰の前での私の命なのか。
私の身体は完全に自分の所有物として自由であるのか。
そして「私」が、私でなくなる臨界とは。
それは死であるが、私の身体が死体になった時、
脳死の状態を私の死とする時、
身体の他の部位はどうなるのか。
私の人称は消滅し、非人称になるというのか。
こう考えてくると、身体って誰のものなのかが
うすぼんやりとしてくるように感じる。
少なくとも、自分の意のままになるものではない。
というのは確かなようだ。
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悲鳴をあげる身体
鷲田清一
PHP研究所 2021年