2024年は、こちらにもアップします。

2016年12月31日土曜日

2016 Sunset


早い。本当に早い。
2016年がもう終わってしまう。

来たる新年をああしたい、こうしたいというのは
あまりに短視眼的な気がしてきた。
そんなことを思う大晦日の日没です。


今年も公私ともにいろいろな方々にお世話になりました。
本当にありがとうございました。
2017年も、そしてさらにその先も
よろしくお願いいたします。


2016 Sunset


2016年12月30日金曜日

読了 2016

 
今年もおかげさまでたくさんの本を読むことができました。
1月最初の 思い出のマーニー から始まって
先日にメモをアップした ちいさなちいさな王様 まで65冊。

昨年より少し増えたかな。
それでも、本棚、床、机の両サイドに読んでない本が
まだまだうず高くつみあがっています。


実はこれまでも作ってはいたのですが、
地元の写真展や甲府の古本市に持っていった読了メモのフォトブックが好評でした。
今までのはサイズが小さくて読みにくかったのです。それをA5判にし、本の写真もメモの文字フォントも大きくして読みやすくしてみたのでした。

あげくのはてには、先日、北鎌倉の某カフェに強引に置いてきてしまうという暴挙にでてしまいました。
お許しくださいませ。




一方、ここのところずっと出店している鎌倉のブックカーニバルでは、
本をお買い上げいただいたピアノ教室の先生からお声をかけていただき、
クリスマス会に呼ばれ、子ども達と一緒にウクレレを弾いたり
会場にいた親御さん達にウクレレを教えたり
久しぶりにソロ演奏をやっちゃったりもしたのでした。

好きな写真やカフェ、ウクレレに
自分の読んだ本が微妙に絡み合ったりして、
ちょっと面白い2016年だったのです。

そして、なんといっても多くの本に出会い、
また、それを通じていろいろな方々にお会いすることができました。
感謝の気持ちでいっぱいです。
来たる2017年も、懲りずに読んでいこうと思います。


さて、2016年に読んだ65冊の本の写真を
恒例のスライドショーにしてみました。
よろしければご覧下さい。




【読了2016リスト】

■思い出のマーニー
著者:ジョーン・G・ロビンソン
読了日:1月2日

■猫がゆく―サラダの日々
著者:長田弘
読了日:1月7日

■この世には二種類の人間がいる
著者:中野翠
読了日:1月13日

■あのころの未来 星新一の預言
著者:最相葉月
読了日:1月19日

■ティンブクトゥ
著者:ポール・オースター
読了日:1月24日

■優雅で感傷的な日本野球
著者:高橋源一郎
読了日:1月30日

■この空を飛べたら
著者:中島みゆき
読了日:1月31日

■コーヒーを楽しむ。
著者:堀内隆志
読了日:2月6日

■謝るなら、いつでもおいで
著者:川名壮志
読了日:2月8日

■雨の日はソファで散歩
著者:種村季弘
読了日:2月14日

■落語家論
著者:柳家小三治
読了日:2月19日

■それからはスープのことばかり考えて暮らした
著者:吉田篤弘
読了日:2月23日

■うし小百科
著者:栗田奏二
読了日:2月29日

■最後の授業 心をみる人たちへ
著者:北山修
読了日:3月5日

■スープの国のお姫様
著者:樋口直哉
読了日:3月10日

■詩めくり
著者:谷川俊太郎
読了日:3月16日

■不器用な愛
著者:串田孫一
読了日:3月18日

■死を悼む動物たち
著者:バーバラ・J・キング
読了日:3月28日

■タマや
著者:金井美恵子
読了日:4月2日

■私の体を通り過ぎていった雑誌たち
著者:坪内祐三
読了日:4月9日

■ど制服
著者:酒井順子
読了日:4月13日

■森の人 四手井綱英の九十年
著者:森まゆみ
読了日:4月18日

■平和通りと名付けられた街を歩いて 目取真俊初期短編集
著者:目取真俊
読了日:4月24日

■魔女の宅急便
著者:角野栄子
読了日:4月27日

■「悪」と戦う
著者:高橋源一郎
読了日:5月1日

■昔、そこに森があった
著者:飯田栄彦
読了日:5月8日

■ブラ男の気持ちがわかるかい?
著者:北尾トロ
読了日:5月12日

■どれみそら 書いて創って歌って聴いて
著者:阪田寛夫
読了日:5月17日

■いじわるな天使
著者:穂村弘
読了日:5月20日

■僕の虹、君の星 ときめきと切なさの21の物語
著者:ハービー・山口
読了日:5月29日

■黒い玉 十四の不気味な物語
著者:トーマス・オーウェン
読了日:6月3日

■走れメロス
著者:太宰治
読了日:6月8日

■ヴィヨンの妻
著者:太宰治
読了日:6月15日

■コンセント
著者:田口ランディ
読了日:6月20日

■世界を変えた野菜読本 トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ
著者:シルヴィア・ジョンソン
読了日:6月26日

■総理大臣になりたい
著者:坪内祐三
読了日:7月2日

■語るに足る、ささやかな人生  アメリカの小さな町で
著者:駒沢敏器
読了日:7月9日

■イマジネーションの戦争
著者:星野智幸
読了日:7月20日

■トリツカレ男
著者:いしいしんじ
読了日:7月23日

■流星ひとつ
著者:沢木耕太郎
読了日:7月28日

■星の詩集
著者:宮沢賢治
読了日:7月30日

■あたまの底のさびしい歌
著者:宮沢賢治
読了日:8月1日

■砂漠でみつけた一冊の絵本
著者:柳田邦男
読了日:8月6日

■1973年のピンボール
著者:村上春樹
読了日:8月9日

■憑かれた鏡 エドワード・ゴーリーが愛する12の怪談
編者:E・ゴーリー
読了日:8月18日

■遊覧日記 武田百合子全作品6
著者:武田百合子
読了日:8月22日

■書物の変 グーグルベルグの時代
著者:港千尋
読了日:8月29日

■妖怪天国
著者:水木しげる
読了日:9月4日

■朗読の時間 中原中也
著者:中原中也
読了日:9月6日

■全ての装備を知恵に置き換えること
著者:石川直樹
読了日:9月12日

■女医裏物語 禁断の大学病院、白衣の日常
著者:神薫
読了日:9月19日

■退廃姉妹
著者:島田雅彦
読了日:9月28日

■サンドウィッチは銀座で
著者:平松洋子
読了日:10月5日

■さようなら、ゴジラたち 戦後から遠く離れて
著者:加藤典洋
読了日:10月14日

■エルマーと16ぴきのりゅう
著者:ルース・スタイルス・ガネット
読了日:10月18日

■街の人生
著者:岸政彦
読了日:10月25日

■現代日本語文法入門
著者:小池清治
読了日:11月2日

■村上春樹にご用心
著者:内田樹
読了日:11月7日

■カリコリせんとや生まれけむ
著者:会田誠
読了日:11月13日

■水声
著者:川上弘美
読了日:11月18日

■文学が好き
著者:荒川洋治
読了日:11月24日

■空飛ぶ男 サントス・デュモン
著者:ナンシー・ウィンターズ
読了日:11月30日

■しなやかに心をつよくする音楽家の27の方法
著者:伊東乾
読了日:12月8日

■クリスマス・ボックス
著者:リチャード.ポール・エヴァンズ
読了日:12月14日

■ちいさなちいさな王様
著者:アクセル・ハッケ
読了日:12月18日


2016年12月29日木曜日

読了メモ「ちいさなちいさな王様」アクセル・ハッケ



読了。

大人の絵本という紹介だった。
ちゃんと文字のページの方が多いお話だけれども
挿絵の空気感と絵のさしこまれるタイミングが絶妙によくて
「絵本」と紹介されてもうなずける。

中身はどちらかというと哲学的。
なにせ、この王様の種族は
大人になるにつれて小さくなっていくのだ。
生まれたときは大きくて、だんだんと小さくなっていき
しまいには見分けがつかなくなるという。

主人公の「僕」はサラリーマンで、
このちいさな王様と夢の話をします。
昼間の仕事に追われているサラリーマン生活が
実は夢ではないのかと。
夜になってベッドに入ると目を覚まして
好きなことをしている本当の姿に戻れるという。
その方がいろいろ変化があって楽しい。
昼間のことなんて単なる夢だと。

そして、王様は小さくなるのは自分たちだけではなく
「僕」も小さくなっているんじゃないのかと言ってきます。
ここのくだりはお話の最初のところにでてきて、
もうここでガツンと言われちゃうんです。
子どもの頃はとっても大きかったのに、
大人になっていくにしたがって小さくなっていないかって。


王様の描いた絵を「絵持ち」のところへ届けにいく話は
とってもファンタジックで楽しい。
頭の中にはたくさんの絵があって、
そのなかには一度しか見ることのない絵があるかもしれないけれど、
その絵は頭の中に必ずあるんだよって言ってくれるのが
なんか無性に嬉しくなる。

そんなちいさな王様がいないことにすら気づかないのはあまりに寂しい。
この本を読んだら、ちいさな王様がすぐそばにいるのがわかりますよ。きっとね。

==================
ちいさなちいさな王様
アクセル・ハッケ
講談社 2014年

2016年12月24日土曜日

読了メモ「クリスマス・ボックス」リチャード・P・エヴァンス




読了。

早いもので、今年もクリスマスの時期を迎えました。

毎年のことながら、この時期に向けて
街中が光に溢れ、クリスマスの音楽が流れて気持ちも華やぎます。
年の瀬で一年を振り返る時節ということだけでなく、
個人的な話になるけれど、自分のためのような錯覚がいつもあって
センチメンタルな気持ちにひたれる時期です。

そんな時に合わせてクリスマスの本を読みました。
この時期にクリスマスの本を読むなんていつ以来でしょうか。
クリスマス・キャロルを読んだのはいつだったかな。

お話はいたってシンプル。
よけいな思いを巡らす必要はありません。
そのまま読んで心にしみこませてください。
愛する人と過ごす時の大切さを感じることができると思います。

話の舞台は主人公家族が住み込むことになる大きな屋敷と
クリスマス・ボックスのある屋根裏部屋。
鍵になるのは箱の中の手紙、裏庭の天使の像。
もうファンタジー感いっぱいです。

屋敷の主であり、主人公家族を雇っているのは一人の老女。
最初のクリスマスの贈り物は何か。彼女は主人公に問い続けます。
彼は洋服の仕立て販売をしているのですが
あるお客との子供服の仕立ての話、
妻から知らされる老女の持つ聖書のエピソードや
娘との会話、そして箱の中の手紙を通じて
主人公は最後にやっと気づくのです。


最初のクリスマスの贈り物ってなんだと思いますか。
きっとわかると思います。

Merry Christmas....


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クリスマス・ボックス
リチャード・P・エヴァンス
講談社 2001年

2016年12月17日土曜日

読了メモ「しなやかに心をつよくする音楽家の27の方法」伊東 乾



読了。

音楽の話かなと思ってたらそうでもない。
プロローグに、聴衆を前にして演奏であがらないためには.....。
という話はあるけれど、
本編の方は、音楽家向けというよりは
もっと幅広く、これからの日本を担う
若い世代に向けたメッセージと捉えられると思います。
著者は指揮者ということもあり、
経営者やビジネスマンを意識した話もあった。
まぁ、それもそのはずで、ビジネス誌に連載されていた
コラムを編纂したものだったのでした。

すべてに共通するのは、「終わりなき独学者」であって
自分自身が採点者であること。
世に言われる「何のために学校にいくのか」
「・・・のためには何をしなければならないか」
という問いに対して厳しくコメントしています。
著名な指揮者や音楽家は、必ずしも有名な音楽学校を出たわけでもない。
学生時代の専攻分野が音楽と全く無関係な人ばかりだというのです。
また、アルゼンチンの勤労学生が日本にきて
何社かの工場で働いたあと、
お金よりも自分の人生や人間の本当の幸せが大切だ。
と言って帰国するのです。
あの宮沢賢治も言う「ほんとうのさいわい」
を共通にするこのエピソードが
最後まで自分の心の中に残りました。
ほんとうのしあわせって何か。
この本で最後まで問い続けていることのように思います。

常識や慣習にとらわれない判断と
愚直な行動、著者がいうところの「バカになる」ことで
自分の道を見つけていく。
その過程が、音楽家の場合は「リハーサル」つまり「練習」。
そして、知ったかぶりはしない。知ってることが偉いことではない。
「無知の知」から出発することの大切さ。
わけ知り顔のロートルが経験を振り回して言うアレコレに萎縮しなくていい。

ちょっと、耳が痛いような話もあったのでした。

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しなやかに心をつよくする音楽家の27の方法
伊東 乾
晶文社 2014年





2016年12月11日日曜日

読了メモ「空飛ぶ男 サントス−デュモン」ナンシー・ウィンターズ



読了。

知らなかった。
人類の飛行史の中で著名な人物と言って思い浮かぶのは、
ライト兄弟、リンドバーグくらい。

彼らにまつわる話を読んでいるわけではないので
比べるのはどうかと思うけれど、
普段はもちろん、飛行の時でも襟の高いシャツをきて
ヒゲを生やしたオシャレないでたち。
当時は空を飛ぶというだけで、世間の注目を一手に集めるのに
それを気にも止めないかのような自分のスタイルで
颯爽とやりすごす様はなかなかイカすのです。
うん、かっこいい。

それは、外見だけではない。
彼は飛行中の時間を知るために、
世界初の腕時計をあのカルティエと作ってしまう。
そしてそれが今でもブランドとしてしっかり息づいている。
値段もすごいのだけれど、こういう形で古の飛行家の意思が
時代を超えて継がれているのは尊ささえも感じるものです。

また、自らの製作した気球、飛行船、飛行機についての
特許権は全て放棄していたそうです。
空はみんなのもの、独り占めにできるものではない、
大空を滑空するのは全人類の持つ夢ということなのでしょうか。

ただ、人類はその飛行の技術を使って戦争に突入します。
飛行機を使って都市を破壊し、多くの人の命を奪っていく。
いたたまれなくなったサントスは鬱病になり、自らの命を絶ってしまう。


最後のサントスの悲劇を読みおえた時、
ちょうどノーベル賞の授賞式のニュースもあって思ったのです。
だれも人を殺すために、未知の発見や技術の開発に寝食を忘れ、
汗水たらして新しい産業を興したりするのではないでしょう。
人類の叡智はまだまだ使いきれていないと。

ちなみに、サントスが最初に作った気球には
日本産の絹と竹が使われたそうです。

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空飛ぶ男 サントス−デュモン
ナンシー・ウィンターズ
草思社 2001年
-

2016年12月3日土曜日

読了メモ「文学が好き」荒川洋治



読了。

この本も、タイトルからすると
硬い文学評論とイメージされるけれど
意中の本の紹介だったり随想だったりとそうでもない。

その中に、「言葉がない」というエッセイがあった。
世には様々な語句や表現があり
ある分野の様子や状態を表す言葉は実に豊富にある。
一方で、そうでない分野もあることも確かだ。
たとえば、「批評」。この「批」という文字には
「うつ」とか「なぐる」「せめる」という意味が原義にあるそうで、
著者としてはもう少し程度のやわらかいきつくない言葉が欲しいという。
他にも、「さわやか」「可憐」
「人生」「幸福」「自然」などの類語が不足していると。
言葉に抱く感覚が個人個人では違うなかで、その不足にぶつかった時に
そこをどう補っていくかと思考するのは楽しくもあり苦しくもある。

今回もそうだったが、詩を書く人の文章って
心が落ち着く。穏やかになる。
ここ数年、本を何冊か読んできて、
あっ、これって素敵だな、いいなと感じてきたものが二つある。
一つは児童文学。もう一つは、詩人の文章だ。
特に詩人の文章の行間がいい。

茨木のり子さんの詩集を紹介する話があった。
いつまでもいい詩集「倚りかからず」
詳細は触れないけれど、最後にあった
この詩は、読者をゆたかにもする。まずしくもする。
という結びが、この詩の存在感をぐっと持ち上げている気がする。


巻末には著者が選んだ「一年一作百年百編」というコーナーがある。
1900年から1999年の百年間で発表された文学作品(主に小説)から
一年一作の条件で百編を選んだもの。
同じ作家は二度選ばない条件で選出したそうだ。
2〜3行の紹介文つき。
これから読む本の参考にしたい。

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文学が好き
荒川洋治
旬報社 2001年





2016年11月26日土曜日

読了メモ「水声」川上弘美


読了。

小説が読みたくなったので棚から引き抜いた一冊。

ちょうど主人公の二人は自分とたまたま同世代だった。
過去の回想シーンで引き合いになる事件・事故は、
実際に自分も目にしているせいもあって
妙な生々しさを話の中に醸し出している。
日航機123便墜落事故、チェルノブイリ原発事故、
昭和天皇崩御、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件。

テーマはきっと家族なんだと思うけれど、
昔の話ができるのは、その時一緒にいたからだということで
血の繋がりとか、家系とかはあまり関係ないようだ。
たとえ、両親同士がただならぬ関係であっても、
二人のいない今、親しい関係が築けているのであれば、
長いこと家族として生活していた家に再び一緒に住まうことは、
彼らにとって自然なことなのでしょう。

文章がとてもふわふわしているというか、
中空を漂うような定まらない感じを最後まで受けるけれど、
書かれている話はグロテスクな内容だ。
特に亡くなった母親を回想するシーンで
突き放したり、あるいは刺しこむような言葉を子どもに投げる母親が怖い。
また、それを傍らで飄々と見ている父親も。

最後までどこかがずれていると違和感が続く話。
本文中にはこんなことが書いてあった。

  生きているもの同士が、南京錠や鍵の凹凸のように
  きっちりとはまりあうことは、ない。

南京錠は、時計がたくさんある部屋をがっちりと施錠している。
必要な時以外、容易に開けることはできないのだけれど
最後は大きな音とともに瓦解してしまう。

何かが歪んだままでいると
いつかはその歪みを解消しようとする力が
はたらくのでしょうか。

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水声
川上弘美
文藝春秋 2014年


2016年11月19日土曜日

読了メモ「カリコリせんとや生まれけむ」会田 誠



読了。

実は文庫本でも持っていたのに、
あとから古本屋で単行本を見つけてしまって、
そっちも買ってしまったものの一つ。

以前、「青春と変態」を読んでいたので、
この本もなかばワクワクして読み始めたのですけどそうでもない。
むしろ、作品の生みの苦しみだとか、つけたタイトルの意味だとか、
美術を生業としようとしている学生や若い人たちに向かっての
メッセージなどが盛られている。
失礼ながら、真面目で含みのある話が多い。
浅田 彰の名前を使った作品タイトルの意味を解説したところは、
しっかりと考えられているんだなぁと感心しきり。
一歩間違えば屁理屈かもしれないけれど、
発表する作品につけるタイトルの重みというものを感じます。


美術から離れて子育ての話もある。
「学校は従うところなんだよね」と言い出す著者の子ども。
そんな対応に困る子どもは傍に除けるような考え方が、
市井の人々一般にごくごく普通にまかり通っていることについて
自分自身の子ども時代も振り返って述べています。
いわゆる他と違った子どもだった自分をそのまま放置してくれたおかげで、
今の自分があり、当時の学校や親に感謝していると。
現代美術家として生きている今だからそう言える話なのでしょう。
学校や園に、ちょっと尖った子どもがいたりすると
今の社会はどう反応するんでしょうか。
その子はどうなってしまうんだろうかなどと
余計なことを考えてしまいます。


中島みゆきの歌詞についての話では
ポジティブソングとして「はじめまして」が出てきたので、
CDをレンタルしてきて聴いてます。
たまたま、年明けに中島みゆきのライブの模様が
映画館で公開されるという情報も得たのでそっちも楽しみ。

オタクっぽくて、それこそ変態な話もあります。
ガンダムを無視した話とか、大場久美子の話とか。
でも、これらの話って、自分にも覚えがあるなぁなんて。。。

装丁のスクール水着の女の子は、本文中に挿絵としても出てきます。
あわせてお楽しみください。

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カリコリせんとや生まれけむ
会田 誠
幻冬社 2010年





2016年11月13日日曜日

読了メモ「村上春樹にご用心」内田 樹



読了。

内田先生の村上春樹について書かれたブログや
雑誌に掲載されたエッセイのアンソロジー。
体系的に整えられた堅い評論ではないので
内田先生の本って読むの難しそうだなという方も
気軽に読めるのではないかと思います。
内田節はもちろん炸裂してますので、
それはそれで存分に楽しめます。

いくつかの話を通じて、一貫して言っているのが、
なぜある種の批評家たちは
村上春樹にこれほどまでに深い憎しみを向けるのか。
というトピック。
自分もこの本を読んで初めて知ったのですけど
ある著名な方などは、「村上春樹など読むな」とまで言ったとか。
せめて、私は読むに値しないとそう思うのだから、
騙されたつもりで貴方も一度読んでみてごらんなさい。
私の言うことがわかるから。
というのが、文壇から出すコメントとしては本筋ではないか
という指摘は至極ご尤もですね。

ただ、この話を読んだ時に、ふと、自分もネタ違いこそあれ、
似たようなことをしていないかと思い巡らしてしまう。
食わず嫌い、見て見ぬ振り、先入観、思い込み。。。
思い当たるところありますね、あります。
最初になんらかの強烈な印象が刷り込まれてしまうと
なかなかそのメモリーを書き換えることが
難しくなってきている昨今は、特に意識しておかないといけません。

村上春樹の作品は、はじめから翻訳されることを想定しているので
外国語に翻訳されたものをあらためて和訳しても
大きな違いがないという話も驚きです。
内田先生はそれを実例で示してくれています。
外国語のできる方はそんな読み方もできるんですね、いいなぁ。

表紙カバーに載っている小さいイラストの
雪かき仕事の解説もでてきますよ。
宇宙論的仕事観とか言って、そんなに難しい言い方でなくとも
よっしゃ働くか!っていう気持ちになることの尊さを
かの作品を通じて読めるんだと諭しています。

などとこういう指摘がいろいろ出てくるので
まだ読んでいないのはもちろん読みたくなるし、
読んだものももう一度読み直してみたくなる
ということになっちゃうのです。

さらに、この本にも続編があります。
すでに積ん読の中にあるわけでそれはまたいつか。

====================
村上春樹にご用心
内田 樹
アルテスパブリッシング 2007年




2016年11月7日月曜日

読了メモ「現代日本語文法入門」小池清治


 
読了。

中学校で習った時以来だろうか。。。

おそらく多くの人がそうであるように、
文法を習ったからと言って、何か特別なことがあったわけでもない。
空気のように日本語を使っているし、
そもそも、文法を習わずとも学校に入る前から
日本語を巧みに使っているではないか。

文法って一体だれのためにあるのだろう?
本書にもあったが、それは、その言語を母語に持たない人が学ぶためのものであり、
さらにそれが異教徒への伝導などにつながっていくのだという。
ひらたく言えば、外国人のためにあるというのだ。

しかしながら、本書を読んで更にその意をあらたにしたのは、
やっぱり日本語って難しいです。ほんとうに難しい。
それを外国人が学ぶというのだから頭が下がる。
逆を言えば、こんなにも難しい言語を自在に操れるということは、
地球上のあまたある言語の中で日本語を喋り書くことができるということは、
極めて稀有なことなのではないでしょうか。
日本文化は、「察しの文化」、「言わぬが花」、
全てを言い切ってしまっては味わいに欠けるので、
極力、言語化しないのをよしとすると文法の本に書かれている言語です。
他の言語の奥深さをよくわかっていないので井の中の蛙的な見方ですが
今になってこういう本を読んでみると大変なことなんだなと思うことしきりです。

 
懐かしいサ行変格活用やら上一段活用やらもでてきます。
文節をどう区切るかも、諸説あることも初めて知りました。
イントネーションの大切さも言われてみれば首肯する話でした。
けれど、やっぱり難しい。
とくに動詞や形容詞の活用やら、修飾語や助詞、助動詞にいたるまで
その使い方によってことこまかく名前がついているわけで
これを理解把握するだけで白髪になりそうです。
日本人の私がそう思うくらいですから、
これを勉強する外国人って本当にすごいと思います。

各章や各節のはじめには例題があり、終わりには演習問題までついています。
なに問題の答えが解答通りでなくたってかまいやしません。
四角四面なことを言うつもりは自分にはありません。
なるほど、そう言われればそうだよねでいいのです。
私たちはとっくに日本語を使えるのですから。

=======================
現代日本語文法入門
小池清治
岩波書店 1997年

2016年11月2日水曜日

読了メモ「街の人生」岸 政彦



読了。

世でマイノリティと言われる人たちへのインタビュー集。
日系南米人のゲイ、ニューハーフ、摂食障害者、
シングルマザーの風俗嬢、そして元ホームレス。

彼らひとりひとりに確かな人生があるわけで、
インタビューを通じて著者の言う「人生の断片」というものを垣間見て、
それはどこのだれもが持っている普通のものであるけれど、
その人固有の唯一無二のものなのです。
読んでみて、貴重な体験をさせてもらえたなと言える一冊です。

ただ、マジョリティとの確執はどうも埋めようがないのも現実。
もちろん本人にとっては、いたって普通だしあたりまえだし、
いわんや病気だなんてとんでもないことなのです。
しかしながら、相手がたとえ親族であっても、兄弟であっても
拒絶されたらいやだなという思いが心の底に常にある。

一方で両方の気持ちがわかる、どっちの立場も理解できるという話も面白い。
そもそも人間は両面を持っていて相互に理解できる素性があるのに、
いつのまにか型や枠にはまって思考の道が一本道になってしまっている。
彼らはいわば複眼的に社会を見据えやすい立場にいるのではないでしょうか。
明暗、高低、表裏、左右、上下、真偽、内外、大小、男女、貧富。。。

最後、元ホームレスの西成のおっちゃんの言葉が響きます。
凄まじいくらいのホームレス度合いの話を聞いたあとなのでなおのことです。
 
 やっぱね、人ってね人間ってね、一人では絶対に生きていけん。
 少しでも人と話をしたりするのがやっぱり、長生きの秘訣。
  〜 中略 〜 
 ああじゃこうじゃ言ってな、たまには喧嘩もしたり、
 人間感情があるからね、YESマンじゃないから(笑)
 
なんだかとても豊かな気持ちになれたのでした。

======================
街の人生
岸 政彦
勁草書房 2014年





2016年10月23日日曜日

こうふのまちの一箱古本市に出店します。




今週の土曜日10月29日になりますが、
性懲りも無く出店いたします。

今回は地元から離れるのですけども
主催されているBEEKというZINEがとっても素晴らしく
この古本市には、一度、行ってみたいと思っていたのです。
で、思い切って参戦いたしますです。

場所は甲府駅から徒歩数分のところにある
銀座通りアーケード商店街です。
パンとコーヒーの販売、体験型WSもあるとか。

よろしければぜしおこし下さい。


こうふのまちの一箱古本市 10/29(sat)
11:00〜16:30(パン屋さんの出店は12:00〜)
場所:銀座通り商店街 春光堂書店前
山梨県甲府市中央1丁目4−4
http://www.beekmagazine.com
 

2016年10月19日水曜日

読了メモ「エルマーと16ぴきのりゅう」R・S・ガネット



読了。

冒険物語の楽しみってどこにあるのでしょう。
ジェットコースターに乗ってるようなストーリー展開、
主人公に迫る危機、見たこともない世界との遭遇。。。。

いろいろとありますけれど、
主人公になりきって読み手が味わうことのできる
二つの楽しみに思い当たりました。

 
まずは「秘密である」ということ。
そう、冒険は秘密でなければドキドキ感が全然違うのです。
仲間のりゅうを救い出すために、
エルマーとりゅうのボリスは一緒にいるところを
他の人間に知られてはならないのです。
もちろん、お父さんやお母さんにも秘密。
親に秘密というのは、子ども達にとって
とっても心拍数のあがることだと思います。

りゅうの背に乗って空を飛んでいる時に船のサーチライトに照らされたり、
帰りの汽車の車掌さんや切符売りのおじさんに不審がられたり、
そしてそのことが、お父さんの読んでる新聞に載ってしまったとしても、
エルマーは最後まで秘密を貫き通しますよ。
物語の最後までエルマーの心臓のバクバクするのが聞こえてきそうです。


もう一つは「準備する」ということ。
冒険を始める前には、綿密周到な計画を立てて
必要なものを必要な数だけ揃えておかなければなりません。
たとえ、それがチョコレートであっても笛やラッパであっても、
ひとつづつリストアップしていくのです。
冒険に必要な理由が全てにあるのですから。
その準備する時のわくわく感たらありません。

話はかわりますが、これって人に贈るプレゼントを
選んでいる時の気持ちと似ていると思うのです。
贈る相手のことを思い浮かべて、喜んでくれるものって何かなと品物を選ぶ。
プレゼントって選んでる時もプレゼントの一部なんだよって
家人が言っていたのをおぼえています。

でもね、そのせっかく準備したものを、
冒険の途中で食べたり使っちゃうのですよね。
あきらかに本来の目的とは違う使い方なので、
おいおい、そんなに大丈夫かよって思わず言いたくなってしまう。
そんな脱線も冒険物語のハラハラな感じを盛り上げてくれる要素です。

子どもの頃に戻って冒険物語を読んでみませんか。
そらいろこうげん、ごびごびさばく、とんがりさんみゃくが待ってますよ。

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エルマーと16ぴきのりゅう
ルース・スタイルス・ガネット 作 ルース・クリスマン・ガネット 絵
渡辺茂男 訳
福音館書店 1997年





2016年10月14日金曜日

読了メモ「さようなら、ゴジラたち 戦後から遠く離れて」 加藤典洋



読了。

「オレは関係ない!」

よく聞くフレーズであるが、こう言い放つことが
未来へ、理想へ向けて歩み出す第一歩だという。
黙して心の中で叫ぶのではなく、発語するのがポイント。
この「無実」の一言で、これからの世界を引き受ける道筋ができるというのです。

たとえば、戦後に生まれたからオレは関係ないという。
でも、その前に日本国民なんですよね。
確かに戦争の時代を生きていたわけではないけれど
同じ国土に住む日本国民としてどう生きて行くのか。
これを考え始める端緒となるのが、
オレは戦争に関係ないという一言だというのです。

銀河鉄道の夜のカンパネルラとジョバンニを例に
子供と少年を比較する話も面白い。
一方は人のために死んでもいい、一方は自分のために生きていていい。
自分のことだけで精一杯のジョバンニですが、
カンパネルラが帰らぬ人とわかった世界を
ジョバンニは引き受けなければならなくなるところが心に残るというのです。

そして、ゴジラ。
1954年、戦後わずか9年後に制作されたゴジラは、
一般的には、反原水爆の権化ととらえられていますが
実はそうではなく、戦火の中に散っていった兵士たちの亡霊だと。
もっとたとえていうなら、海上で戦闘機に掃射されるゴジラを
真上からみるとまるで「戦艦大和」とまで言っています。
その後、何度も何度も映画化され、シリーズを通して、
戦争の亡霊であるゴジラは、不気味なものから
衛生化し無菌化し無害化されていきます。
こうすることで戦後の現代社会をようやく目の当たりにすることになるというのです。
この視点は、ちょうど奴隷制による闇の社会を経験したアメリカ、
そのニューヨークに上陸するキングコングと同じだといいます。
キングコングも奴隷と同じ南方のジャングルの孤島から
アメリカに連れてこられるのですよね。

憲法9条についても、崇高な理念とそれに伴わない現実という
中途半端な今のバランスの状態でいいと説いています。
今のままで何が問題なのかという、内田 樹先生の論を引き合いに出しながらの
9条の解釈には、はたと膝を打ってしまうのでした。
理念にそって自衛隊を排斥しても、憲法を変えて武力をもっても
どっちになっても成り立ちはしないというのです。


今年封切られたゴジラの最新作を観ましたでしょうか。
この本を読んでみて、やはりもう一度観たいという念にかられました。
最新作のゴジラは、今の日本にとって一体何なのでしょうか。。。。

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さようなら、ゴジラたち 戦後から遠く離れて
加藤典洋
岩波書店 2010年




2016年10月8日土曜日

読了メモ「サンドウィッチは銀座で」平松洋子



読了。

読み始めたのっけから、お腹の虫が鳴き出す。
そんな、食べ物系エッセイ。
春のネタを盛り込んだ天ぷら、
餃子とビールが最強コンビである話、
ともに照り具合が食欲をそそる鰻やオムライス、
てっちりで味わうひとり鍋の醍醐味、
料理も看板も色鮮やかな場末の中華料理店のざわつき、
最後は、東西の美味しい老舗を巡る。

文章だけでこうも食欲をそそり、
唾液がでてくることはかつてなかった。
どれもこれも、とてもとても美味しそうなのだ。
読み進めるテンポもいいし、目の前に次々とできたてのお皿が回ってくるよう。
谷口ジローの画が、また文章とあいまって胃袋を刺激してきます。
細やかな線で描写された料理に、立ち上る湯気が見えて、
食している人たちの はふはふ という声が聞こえてきそうです。

タイトルにある「サンドウィッチ」。
自分は、「サンドイッチ」と言っていたし書いていた。
発音や字面のちょっとした違いでイメージも変わる。
そして、銀座にあるビニールシート椅子の
レトロなお店で出てくるのは「サンドゥイッチ」なのでした。
整然と切りそろえられ、ハムや卵、レタスの彩もきれい。
80円増しでパンをトーストしてくれるので、これにきつね色が加わります。
いいなぁ。書いていて無性に食べたくなってきた。
そういえば、同じ銀座の木村屋総本店では、
混んでることもあって、いつも手っ取り早く「あんぱん」ですませていた。
次はじっくりサンドウィッチにトライしてみよう。

巻末には、紹介されたお店と住所も載っています。
ネットでこの手の情報が溢れている中で、
こんな丁寧な構成もうれしくなってしまう。
閉店したお店の話は残念でしたが、
今あるうちに行って食べておかねば!という気にさせてくれます。
もちろん、チェックいれてます。
鰻のお店とオムライスのお店に行きたい。
天井の高い桜鍋のお店もいいなぁ。

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サンドウィッチは銀座で
平松洋子
文藝春秋 2011年

2016年10月1日土曜日

読了メモ「退廃姉妹」島田雅彦



読了。

敗戦後、アメリカの占領下におかれた日本。
極貧の中、なんとかして生きる道を画策する父親は
ある日、アメリカ兵の肉を食べたと
あらぬ容疑をかけられ米軍に連行されてしまう。
その父親が帰ってくるのを待ち、母の好きだった家を守る姉と妹。
父親が手をかけていた仕事が次第に明るみになっていき、
二人の姉妹は米軍兵を相手に生きる糧を稼ぐ道を進み始める。

戦争に負けた国の市民の惨めさ、悲しさ、辛さ、苦しさが切実。
むろん、自分の想像もおよばないような酷い現実が
一般市民の生活の目の前にあったのでしょう。

姉妹の他に、銀座の街で稼ぐ先輩格の女性や
姉妹の父親が始めた「事業」に身を投じた秋田弁の女性、
そして、姉が慕う特攻崩れの男。
姉妹以外の人物にも戦火、空襲をくぐり生き抜いてきた
逞しさ、必死さをメラメラと感じますし、
一方で、感謝の気持ちを表し、相手を想い、
心の優しさを大切にする姿を読んでいると、
 ああ、がんばれ! と思わず声をかけたくなるほどです。
その逆に、「元」軍人や学校の先生、政治家などの
掌を返したような身勝手で恥知らずな言動には
読んでいる方もしかめっつらになります。

そんな闇の世界や、姉妹が身を投じる境遇は過酷ですけれど
意外にも読みやすく話はどんどんと進んでいきます。

二人の姉妹はその後、それぞれ孫を持つまでになりますが
特攻崩れの男が姉宛に送った最後の手紙の一節が切ないです。

 たった一度の偶然の出会いだけでも、
 たった一度の接吻だけでも、
 人は一生、それを励みに生きていける。
 

それと、昭和な世代の人にとっては
もう懐かしさをも感じてしまう
あの人がちらちらと出てきます。
「あ、そう」と返事をする人です。

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退廃姉妹
島田雅彦
文藝春秋 2005年




2016年9月26日月曜日

読了メモ「女医裏物語 禁断の大学病院、白衣の日常」神 薫



読了。

う〜ん、罪作りな装丁だよなぁ。
こんなん見ちゃうと、誰だって猥雑な話があるんだろうと
もやもやと妄想しちゃうよね。

でね、中身は全然違います。
どちらかというと、医学部フェチ、医療オタクな世界に入り込めます。
あらためて気がついたけど、お医者様の世界では
病気とは言わないのね。「疾患」というのですね。
解剖実習では、尊い献体には手を合わせ、
場を変えて病理学の部屋では、標本を机の上において
ジャンクフードを食べるという日々。
タッパーの中にはホルマリンに浮かぶ人間の脳とかもあるわけで
そのタッパーにはレンジでチンOKのシールが貼ってあったりする。
こんなエグいけれども、とてもディープな世界を
覗き見ることができます。

そんな中でも、比較的親近感を覚えた話題は聴診器のこと。
やっぱり、ハイエンドグレード、つまりお値段の高い方が
心雑音の聞こえ方が全然違うんですって。
著者は循環器内科実習の際に1万5千円の聴診器を買ったそうですが、
教授のそれはゴールドに輝く7万円!
ものの見事に聞こえたそうです。
やっぱり、道具はいいもの誂えないとね。どこの世界も一緒です。

研修医時代のひもじさが伝わる話もあります。
著者は眼科に入るわけですが、コンタクトレンズの検診バイトの方が
時給の割がいいっていう話とかは切実です。
眼科にくる患者は目が悪いから平気なんだと
ミニスカで登院する女医とかもいるそうですが、
もちろん、素晴らしい尊敬すべき先生のお話も載ってますよ。

あとがきにある通り、病院や医師に親しみを覚える一冊ですし、
医療の専門用語って、なかなか捨てがたいと思いました。
字面と音読した時の響きがよいですね。
そんな私と同じオタクな心を持つ貴方もお気軽に読める一冊かと。

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女医裏物語 禁断の大学病院、白衣の日常
神 薫
文藝春秋 2012年







2016年9月24日土曜日

湘南写真倶楽部の合同写真展に出展します。



早いもので、今年もこの季節になりました。

地元、湘南写真倶楽部の合同写真展に懲りずに出展します。
場所は今までと同じJR茅ヶ崎駅北口にある市民ギャラリーです。

昨年は事情があって、参加を直前で見送ったので2年ぶり。
じゃ〜充電ばっちり・・・・ってなわけもなく、
今年も泥縄で仕上がりそうです......。 ┐(´-`)┌

そんな、あたくしのはともかく、
メンバーの秀逸な写真を是非ご覧くださいませ。
額装された写真のほか、フォトブックコーナーもあります。

御用とお急ぎでない貴方、茅ヶ崎まで足を運んでみてはいかがすか。

10月13日(木)〜10月16日(日)
10:00〜19:00(最終日は 17:00 終了)
茅ヶ崎市民ギャラリー展示室
 茅ヶ崎市元町1-1 ネスパ茅ヶ崎ビル4F
 (駅直結のデッキ3Fからビルに入れます)


2016年9月19日月曜日

読了メモ「全ての装備を知恵に置き換えること」石川直樹


読了。

著者は高校時代にインドを一人で旅し、
北極から南極まで人力で踏破するPOLE TO POLEプロジェクトに参加
世界7大陸最高峰登頂も制覇した。
また、熱気球による太平洋横断に挑戦したが、これはハワイに着水している。

こういう冒険家の体験談を聞いたり読んだりすると
植村直己や三浦雄一郎、先日も写真展を観てきた星野道夫などの
赤黒く日焼けしたベテラン年配者のイメージを持つのですが、
この著者は若い。1977年生まれなので来年40歳ということか。


読む前はタイトルの印象から、過酷な環境や生死をさまよう苦難を
いったいどんな工夫やおどろきの発想で乗り越えてきたかを
手に汗握って読めるのかと、これまた勝手に思い込んでいたものの、
読み始めてみると意外と淡々としていました。

海、山、極地、都市、大地、空 の
6つからなる章立ての中には、それぞれの土地、場所での
それこそ極限な状況や、未知の世界に接する話がたくさんあります。
読み進めていくうちにわかってきたのは、
それらはその土地にあるごく当たり前にあることであって、
なにもお化けや悪魔がでてきて退治する話ではないのです。
何かを見たい感じたいと思ったら、迷わずに足をそこへ踏み出すこと。
それを先人の言葉から学び指針にしているというのです。

航海者は進む方角を見据えるために常に現在地を把握し、
小さな船を操るには体力、精神力、仲間との連体感、責任感が必要です。
氷雪地では、GPSとスノーモービルを使えば効率はあがるが五感は鈍化し
自然の中で生きて行く力が衰えていってしまう。
辺境と呼ばれる地に身を置いて自分の位置をあらためて確認すると
今まで見えなかったものが見えてくるのです。

旅の原点は歩き続けることで、何も持たず黙々と歩き続けること。
全ての装備を知恵に置き換えて、より少ない荷物で移動する。
と、最後になって、著者の言いたかったことがわかってきたように思います。

アフガニスタンを訪れた時には、仏像破壊やテロのニュースが流れる中、
現地の人に優しく声をかけてもらい、食事をともにし雑魚寝で休むことができました。
日本でも、山形の雪山から凍えながら降りてきた時に
旅館の女将さんがお汁粉作って待っていてくれたそうです。
とても装備には置き換えられない話だと思います。

そして、今、この瞬間も川は流れているのです。

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全ての装備を知恵に置き換える
石川直樹
晶文社 2005年




2016年9月14日水曜日

読了メモ「朗読の時間 中原中也」朗読 篠田三郎



読了。

いや、聴了とでもいうべきかな。
文学を朗読でまともに聴くというのは初めて。
テレビやラジオで流れているのを聞き流したことはあっても
ヘッドフォンで没入するなんて。
しかも、中原中也の詩。

本書を本屋の棚で見つけた時、
朗読が篠田三郎ということでまずは気になった。
あの声で詩を朗読されたらどんな感じなのだろう。
聴くならヘッドフォンだろうし、
きっと耳骨の奥中に響いてくるのではあるまいか。
そう思って果たして聞いてみると、その声の響きの良さだけでなく
読み上げる速度が、詩に合っていてちょうどよいのでありました。
そう、この読み上げる速度に打たれたのです。

自分は詩を読む時、いつも続けて数回、繰り返して読みます。
すると繰り返される語句がやはり頭に残ります。
これが耳からも入るとなおのこと。
中原中也の詩は、そんな語句の繰り返しがとても印象的です。
黙読する時と、朗読で聴くとではフレーズの巡り具合がまた異なり、
読み上げる速度もこれまでの自分のペースとは違うものですから、
ハッとしたり、新鮮な感じがしてよいのです。

そして、これが別の本を読み始めると、
いつのまにか頭の中で篠田三郎の声が聞こえてきて
またそれが本読みに没頭するきっかけにもなるのでした。
本を読んでいると読み上げる人の声が聞こえてくるという人がよくいます。
自分にはこれまでそういうことはなかったのですけれど、
今回、本書を「聴く」ことで貴重な体験を得ることもできたのでした。


有名な、「汚れつちまつた悲しみに」 をはじめ29の詩がおさめられています。
あのヒット曲の元になったと言われる「頑是ない歌」も。
いくつか頭の中に響いて残っているフレーズがありますが
「いのちの声」という詩の持っている か細いけれど熱い情のようなものや
「無題」という詩の中にある 幸福と対立する頑なな心を
戒めるような問いかけがずっとひっかかっています。

中原中也の詩を朗読で聴くことができてよかった。
黙読だけでは決して味わえない何かを感じることができました。
次はやっぱり宮沢賢治を聴いてみたい。

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朗読の時間 中原中也
朗読 篠田三郎
東京書籍 2011年









2016年9月10日土曜日

読了メモ「妖怪天国」水木しげる



読了。

1970年代から80年代前半にかけて
いろいろな雑誌や新聞などに掲載された水木しげるのエッセイ集。
ほとんどが、2ページと少々程度のもので
ところどころに、独特のあの挿絵がはさみこんである。

タイトル通り妖怪の話はあるけれど
べとべとさんや、川赤子とかマイナーな妖怪で、
名の知れているところでは、あずき洗いや、河童など。
「となりのトトロ」も出てきて解説、絶賛もされていた。
鬼太郎やねずみ男などは挿絵でちょっと顔を出すくらい。

 
著者の妖怪漫画家としての話よりも、
戦争で南方にいた頃の話がベースになっている。
著者は、戦争中、ニューギニアに出征。
そこで片腕を失うわけだが、現地民族と交流を深め、
終戦をむかえても残ることを真剣に考えたとか。
南方は著者にとっては楽園だったという。
ちなみに帰国後も現地住民とはずっと交流が続いていたそうです。
現地住民との心の通い合いや、あわやどうにかなってしまいそうな
エピソードは、エッセイとして面白く読めても
その紙一重にある極限の現実は大変重いものがある。

つらいことや耐えることではなしに、
楽をしたい、なまけたいということを目指すその徹底ぶりの話には
なかば呆れるくらいな印象を受ける。
それでも読み進めるうちに、その「楽」に向けての
著者の真摯な姿勢と生き方に考えさせられるものがある。

また、自分は幸福だと思ったことはあまりないと言い切っています。
あえて言うなら、挑戦することによって生まれる心の緊張、
はりといったものがささやかな快感をもたらし、
それが幸福と言えば幸福なのだそうです。
挑戦の結果を問題にするのではなく、挑戦する行動にその報いが含まれている。
戦争で地獄を経験し、戦後は紙芝居や貸本業を営みながら
厳しい生活をしてきた著者の人生観を感じ取れる一節でした。


妖怪の話に戻ると、ヨーロッパでは妖精画が美しいという。
一方、日本の妖怪画はどちらかというとグロテスクになりすぎている。
日本の座敷童子や一寸法師などは妖精とも言えなくもないが、
四谷怪談に代表される幽霊のイメージがあって、
日本では妖怪を悪しきもの妖しいものとして放置してきた。
ヨーロッパでも魔女に代表される悪魔がいたりするが
シェークスピアでも様々な妖精が登場したり
空想や幻想が追加されて名画も制作されて実に楽しいと。
そうは言うものの、著者のおかげで、
日本の妖怪は市民権をぐっとつかめたと思うのですが、
ご本人にとっては、まだまだまだの様子でした。

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妖怪天国
水木しげる
筑摩書房 1992年






2016年9月4日日曜日

読了メモ「書物の変 グーグルベルグの時代」港 千尋



読了。

キンドルに代表される電子書籍。
デジタル化の技術で何千冊もの書物を薄い一つの端末で読めるようになった。
蔵書スペースをとらず、その何千冊の本をどこへでも持ち歩くことが容易い。
その電子書籍についてのあるトラブルから、本書の話は展開します。
一言でいえば、「読者」は「ユーザー」になったということなのか。

続いて、文字と記録の歴史とグーテンベルグの活版印刷技術の発明。
かの15世紀の大発明は偉大な科学者でも事業家からでもなく、
金属加工に携わる一職人のこだわりから生まれました。
グーテンベルグが作った金属活字は290字。同じ a でも八種類あったそうです。
そして、500年以上の時が流れ、著者が訪れたパリの旧国立印刷所では
数百トンはあろうかという活字の保管庫を目の当たりにします。

と、こう書いていると、デジタルな電子書籍と
アナログなこれまでの本についてのステレオタイプな話なのかと
思ってしまいますが果たしてそうではありません。

大英図書館では古文書の電子化を進めていて
500年以上前のコーランや彩色写本を閲覧できるのですが、
目をひいたのは、その古文書のページをめくる体験ができるというところ。
ページをめくるには、マウスを動かすだけですが、
ディスプレイ上にめくり上がる際には影が生まれて動き、
めくり具合によって羊皮紙が作るカーブも再現しているそうです。
更に自分としては、読み進むにつれて、
本の重心が和書だったら左から右に移っていく感覚を
もたせてくれるといいなと思います。

めくるページの位置や本の痛み具合、
読んでいる場所の明るさ、時刻、季節、年齢などによって
ヒトの読書経験は違ってくるでしょうから
電子化された本の仕様も千差万別であるべきで、
これにどういう解をこれから出してくれるのかと思うと
ちょっとわくわくしてきます。

一方で、本には保存のために修復作業が必要であるということから始まって、
電子書籍の場合、50年後の環境でも
今のデータを読み出すことができるのだろうか、
未来のコンピュータプログラムが
二千年前の電子テキストを理解できるのだろうかは誰にもわかりません。
かくいう我が家にも、すでに再生できないメディアがいくつかあり、
これと同じことがおきるのではと容易に想像できます。
著者は、ここで「本を養う」という表現を使って呼びかけています。
本でも電子書籍でも書物を通して未来を養うことを忘れてはいけないのです。

終盤は、書物の話から少し離れて、
貨幣の統一、非常事態と権力、琥珀の発見、感染症の広がりなどを切り口に
記憶や記録、情報伝達、痕跡と消滅などについての考察が述べられます。

全体的にややアカデミックですけれど
グーテンベルグとグーグルを合わせた造語をサブタイトルに
未来の情報文化や技術の発展について
まだもやもやとはするものの、
はてしない広がりを抱かせる読み物かと思います。

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書物の変 グーグルベルグの時代
港 千尋
せりか書房 2010年


2016年8月28日日曜日

講演会メモ 私の本について話そう「港、モンテビデオ」+その場小説「港」 いしいしんじ



横浜は山手にある神奈川近代文学館で開催された
いしいしんじさんの講演会に行ってきました。
題目は、私の本について話そう「港、モンテビデオ」+その場小説「港」

前半は、会場のその場で「港」という短編小説を書くという試み。
A3の無地の紙に、思いつく文章を読み上げながら鉛筆で書き、
書きながら読み上げていく。その舞台は、三浦半島の三崎。
本人も実際十年間ほど三崎に住んでいたそうです。
自分も三崎には何度か遊びに行ったことがあるので
情景も重なりなかなか不思議な体験をすることができました。

後半は、昨年刊行された「港、モンテビデオ」にまつわる話。
15分ほどのプロモーションビデオまでありました。
同じく三崎が舞台なのですが、そこでモデルとなった
魚屋のおばちゃんも会場にゲストで来ていて
自分の座席の前に座っていた方だったのです。
物語の裏話が進むにつれて、目頭をおさえるような仕草もありました。

やっぱり、虫のしらせとか、因縁とかいうのはあるのでしょうか。
そうとしか思えないような不思議な話を聞くことができました。
実は、まだこの本を読んではいないのですが
おかげさまで、いしいしんじワールドの深いところに
またまたはまってしまいそうです。

会場には、モデルとなったおばちゃんの他に
奥さんと息子さんのひとひ君が最前列にいました。
講演会の間、このひとひ君が元気に動いていて落ち着きません。
最初のうちは、
「なんなんだろう、この子は。せっかく聞きに来ているのに
 講師の子どもとはいえ五月蝿いなぁ。」
と思っていたのですが、だんだんとそういう思いは消えていきました。
というか、これもいしいしんじの世界なのだと。
壇上を動き回るひとひ君を止めようとするわけでもありません。
講演中にひとひ君とやりとりをする場面もあって、一緒に楽しんでいるのです。

また、写真がなくて残念なのですが、講師の来ていたシャツは
ローリングストーンズの唇ロゴがたくさんプリントされた派手なもので、
ひざ下までのスエットのようなパンツにサンダルといういでたちでした。
小説家の講演ということで、多少なりとも気構えていた
こっちが恥ずかしくなりました。

ということで、講演会後には、二人のサインを
しっかりといただいたのでした。


2016年8月26日金曜日

読了メモ「遊覧日記」武田百合子



読了。

エッセイを読んでいると
書かれている文章が好きという作家が
ぼんやりと浮かび上がってきます。
小説とかの文章でではなくて、いわゆる「つぶやき」の文章です。

自分の場合は、城山三郎、向田邦子、串田孫一あたりがあがってきて、
そして、この武田百合子。
いつもいつも読んでいるわけではないのだけれど
古本屋などでこの人たちの本を見つけてしまうと、
つい手にとってしまい、条件反射のようにもなりつつある。
村上春樹や坪内祐三のエッセイは確かに面白いけれども
そういう意味では自分の中ではちょっと違う。


本書では、浅草、青山、代々木、隅田川、
上野、藪塚、富士山、京都、世田谷と訪れて
細かいところを観察しながらつぶやいている。

花屋敷と剥製小屋、そして大黒屋の天丼。
浅草のあのあたりの情景がありありと浮かんできて嬉しくなり、
伝法院通りを抜けてホッピー通りに行きたくなる。

隅田川では、老女5人の酒盛りが面白い。
誰も人の話なんか聞いちゃいないのだ。
思ったことを傍若無人に喋りまくるだけ。
全く会話が成り立っていないのに盛り上がっている。

遊園地付き演芸場では前方座席に20名ほどしかいなかったり、
昆虫館の虫はみんな死んでしまっていなかったり。

藪塚ではスネークセンターの話。
実は自分も子どもの頃、親に連れて行ってもらったこともあったので
ここの話もまた妙なリアルさを感じることができた。

つぶやきの話のネタとしては面白い話があるけれど
この人の文章はどこか天空の上まで通じていて、
かすかに尊い話という印象が残る。
そんな文章なのです。うまく言えないけど。


途中、著者の娘で写真家でもある「H」が登場してきます。
この親子の会話の楽しさに加えて、娘へ注がれている視線が素敵です。
そして、各章の中に写真が1ページ挟まっていて
その写真は、もちろんHが撮ったもので、
最後の「あの頃」という章の中にでてくる聖橋の写真がよかったなぁ。

===================
遊覧日記
武田百合子
中央公論社 1995年



2016年8月19日金曜日

読了メモ「憑かれた鏡 エドワード・ゴーリーが愛する12の怪談」E・ゴーリー 編




読了。

怪奇小説のアンソロジー。
それぞれの話の扉では、エドワード・ゴーリーの
独特の線画による挿絵がむかえてくれる。
収録作品の書き手は、C・ディケンズやB・ストーカー、
W・W・ジェイコブズなど、知ってる作家が多いのも楽しめる。

今年は、6月にも14の怖い話をまとめた本を読みましたが、
怪談のオンシーズンであるこの季節に
もう一冊と思って積ん読から手に取りました。

6月の時と比べると、こっちの方がオカルト度は高いようです。
というか、人間そのものが持つ業の深さや信念の奥底というものに
顔が思わずひきつり、ぞっとするのです。
三つまでのどんな願いも叶うという猿の手の話、
死体を常に手に入れなければならない死体泥棒をはたらく解剖医学者の話、
息子の夢に出てきた悪魔のような女のことを七年間覚えている母親の話など。

また、登場人物は数少ない一人か二人しかいないのに、
そこで展開される恐怖感があいまって、暗い闇の世界がわっと広がり
読んでいるのに何者かに追われている感じを受ける。そんな話もありました。
小高い丘と鉄道のトンネルを情景とした信号手の話や
教会の中に佇む大理石の軀の話など。


エドワード・ゴーリーについては、
いつだったか彼の絵の展示を観に行ったことがあり、
とても強い印象がずっと残っていました。
ゴシックホラーという言葉があるけれどそれとも違うし、
幻想というと逆に鮮やかすぎてしまってまた異なるし。
細い黒い線で描かれている影や闇の隙間から、
その向こう側に静かに存在するものが
見えてくるような.....、そんな挿絵がたまりません。

まだまだ、暑い日が続きます。
冷房の効いた静かな部屋で読んでみませんか。

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憑かれた鏡 エドワード・ゴーリーが愛する12の怪談
エドワード・ゴーリー編
河出書房新社 2006年


2016年8月14日日曜日

映画「フォトグラファーズ・イン・ニューヨーク」


この夏は久しぶりに映画を観ました。

でっかい映画館で、怪獣が出てくる映画も観たんですけどそれはそれで。
こちらはミニシアター系です。

フォトグラファーズ・イン・ニューヨーク




ニューヨークの街角や人ごみの中で写真を撮る。
恐怖とまではいかなくても、
ビビってしまうのは自分だけでしょうか。
でも、15人の写真家のインタビューは情熱にあふれ、
この街の人の写真を撮りたいのだ、撮りたくてしょうがないんだ
という気持ちに満ちています。そもそも皆さんの「目」が違う。

タイトルにニューヨークとあるけれど
撮影される被写体としてフォーカスがあたっているのは、
街そのものではなくニューヨークを行き交う人、住んでいる人。
もちろん、この街が持つ力や背景がベースにあって、
そこに魅力的で様々な人々がいるわけですが、
ストリートフォトって、ストリートにいる人を撮ることなんですね。

彼らは常にカメラを持ち歩いていて、
いつも肩からかけていて、チャンスを逃さない。
この当たり前すぎるこだわりと被写体を目指す眼力に圧倒されます。
彼らのカメラはほとんどがフイルムのカメラでした。
デジタルカメラを持っている映像もありましたが
デジタルだと撮った写真の整理ができないんだよというコメントもありました。


自分はフイルムでもデジタルでも写真の整理は満足にできないし
ストリートフォトを撮りに行く根性もないけれど
う〜ん、レンジファイダーとか欲しくなるなぁ。





2016年8月11日木曜日

読了メモ「1973年のピンボール」村上春樹



読了。

なんだかんだで、積ん読の中に
村上春樹の名前が書かれた本がいっぱいある。
それと先日、ちひろ美術館へイラスト展(既に終了)を
観に行ったこともあって、これを読んだ。

「僕」の話は双子の女の子との生活。
何もモノのない部屋というので小綺麗な部屋を思い浮かべたけれど、
よく読んでみると、アパートの管理人室にしか電話がなかったり、
配電盤の交換に業者が立ち入ったり、セータの脇が綻んでいたりと
実はぐっと庶民的な空間や情景だった。

例によって並行する「鼠」の話の中では、
カウンターのジェイとの会話がたまらない。
いかにも村上春樹というか。。。

例えば、ジェイはこんなことを言う。

「人はどんなことからでも努力さえすれば何かを学べるってね。
 どんなに月並みで平凡なことからでも必ず何かを学べる。
 どんな髭剃りにも哲学はあるってね、どこかで読んだよ。
 実際、そうしなければ誰も生き残ってなんかいけないのさ。」

なんてのは、精神というか脳みそをくすぐられてしまうのです。


僕がおめあてのピンボールを探しだし、
格納されている倉庫に電気を点けて入るところは印象的。
佇むピンボールの群像と電源を入れて彩りと賑やかな音とともに動き出す様は壮観。
そして、この後に再び鼠の話になり、
鼠は街を出て行くことになるのですが
霊園の林の端で車を降りて、街の夜景を眺めます。
これがピンボールの電飾のイメージと重なるのです。

それで、いつもの通り、読み終えてモヤモヤ感があとをひきますが
きっとまた読みなおすんでしょう。

次は「羊」ですかね。


高校の同級生に、自宅にピンボールを持っている奴がいたことを思い出しました。
まさか冗談だろうと遊びに行ったら、
本当に畳敷きの部屋にピンボールがあって、
電気を入れるとちゃんと動いて遊べてしこたま驚きました。
彼は確かデザイナーかになってアメリカに住んでいるんだと思います。
今はどうしてるだろう。
自宅にピンボールを置くなんて、
本書の影響を受けたのかどうかはわかりません。
再会する機会があったら聞いてみるか。

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1973年のピンボール
村上春樹
講談社 1980年

2016年8月6日土曜日

読了メモ「砂漠でみつけた一冊の絵本」柳田邦男




読了。

最近、絵本を読んだことがありますか?

著者によると、人生には
絵本を読む時期が三度あるそうです。

・自分が子どものとき。
・子どもたちのために読み聞かせるとき。
・人生の後半に自分のために読むとき。

絵本は子どものためだけにあるのではありません。
著者は大人になった自分のために絵本を読むことを勧めていて
2003年には、心の砂漠にうるおいを として24冊、
続く2004年には 言葉と心の危機の時代に として27冊、
大人のための絵本のプロジェクトをおこしています。

自分も児童書や子供向けの本や物語を読んだメモを、
なんどかこのブログにも書いていますが、
そこに込められている深いメッセージや
膨らむイメージ、ファンタジーな世界観は
それはそれは素晴らしいものでした。
きっと「絵本」もそうなんですね。
本書では、著者の「大人のための絵本」の活動を通じて絵本に接し、
大きく心を動かされたり、これからの生き方を励まされた
という大人たちのいろいろな声も数多く紹介されています。


この本を手にした時、てっきり物語だと思っていました。
本当の砂漠をさすらい飢えや渇きに苦しむなかで
主人公は絵本を見つけ、そこから物語がひろがっていく話と勝手に勘違い。
「砂漠」とは、大人の乾いた心のことを言っていたのですね。
そこで見つけた一冊の絵本は、
著者の言っている「座右の絵本」になるのでしょうか。。。

何度か紹介されている一冊が部屋の積ん読の中にあったり、
古本屋でちらっと見かけたタイトルがあったり、
またまた本読みや古本屋巡りが楽しくなりそうです。

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砂漠でみつけた一冊の絵本
柳田邦男
岩波書店 2004年


2016年8月2日火曜日

読了メモ「星の詩集」「あたまの底のさびしい歌」宮沢賢治



読了。

久しぶりに賢治さん。しかも詩集。
 
もう一冊は、親友や弟、父親に宛てた書簡集。
こっちも手紙というより「詩」なのです。
散文詩とでもいいましょうか。

最初、詩集だけと思っていたのですが
読み終えて、物足りなくなってというか
もっと宮沢賢治の描く風景を覗いてみたくなり
積ん読の中にあったやや薄めの一冊を続けて読みました。


「星の詩集」では、なんとも言えない
色味の情景が浮かんでくるのです。
夏の真っ黒な夜空に蠍座のアルタイルの赤。
鉱物のことはあまり詳しくないんだけれど
蛇紋岩とイリドスミンに空が染まっていて、
その空の下には、また違う黒色か褐色の
大地がうねっているわけです。
うまく言えないけど、大地と夜空の奥側にある色が
浮かびあがってくる感じがするんです。
銀河と名のつく駅や鉄道も出てきてさらに世界が広がります。

夏のささやかな思い出とお盆の送り火を思い浮かべながら
冬に亡くなった妻のことをうたった詩などもありました。
ここでも蒼白いという色がでてきて
言葉の線も細くて最後は寂しいのですが好きな詩です。


書簡集の方も、宇宙や鉱物が相変わらず出てくるけれど
さらに仏教の教えや題目がでてきます。
星の詩集とくらべて、こっちはぐっと骨太なイメージです。
今を破壊する「しっかりやりましょう」が21回も唱えられています。
まだ、まだ、まだ、まだこんなことではだめ なんだそうです。
 
化石になるなと言い、真理と正義をそれぞれ正しく理解しているか、
我々は勘違いしていないだろうかと自戒をこめています。
真実を追い求めてもがいているのか、
よく言われる「本当の幸せ」を探す気負いのようなものが
手紙の中に溢れているようです。

 
また間をおいて、童話や物語の方も読んでみようと思います。
 
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星の詩集
宮沢賢治
星の手帖社 1996年

あたまの底のさびしい歌
宮沢賢治
港の人 2005年






2016年7月30日土曜日

読了メモ「流星ひとつ」沢木耕太郎



読了。

ノンフィクションライターの著者による
歌手 藤 圭子へのロングインタビュー。
インタビューがなされたのは、
藤 圭子が歌手を引退した1979年。28歳の時。

その後、ずっと封印されて
2013年に彼女が投身自殺をした後に刊行された。


貧しくて苦しい子供の頃の話や、
浅草や錦糸町で流しをして居酒屋を巡っていた時代があり、
それを反骨にしてか是としてか生き方へのこだわり、
曲げられない藤 圭子の道理のようなものを読んでいて感じます。
例えば、クールファイブの前川 清への思い、
紅白歌合戦に選ばれなくなった時の心境と周囲への言動、
喉のポリープを手術で切除したが、
かわりに生来の声を失ったことへの後悔。
また、引退して歌をやめることについて、
歌手にとっての「歌」の存在、価値については、
インタビューでありながら、
そこで喧嘩が始まりそうな藤 圭子の勢いがあります。

全編が、「 」の会話で成り立ち、ト書き、地の文が一切ない。
話し手の名前やイニシャルも文頭にはありません。
章立ても、「一杯目の火酒」、「二杯目の火酒」と
彼女の好きなウォッカトニックを八杯まで、
二人で交わす形で会話が進んで行きます。

ノンフィクションを読むとついつい客観視なスタンスになってしまって、
やや鳥瞰的な読み方をしてしまうことが多いけれど、
本書は読んでいるというより、
二人が飲みながら交わす話をすぐそばで聞いているような
臨場感、没入感がたっぷりです。


事務所を移りながら、そこで出会った歌がいくつか紹介されています。
彼女の声が聴きたくて何曲かYou Tubeを漁ってしまいました。
その中から、こちらをピックアップ。
とても19歳が歌っているとは思えません。



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流星ひとつ
沢木耕太郎
新潮社 2013年



2016年7月24日日曜日

読了メモ「トリツカレ男」いしいしんじ



読了。

小説ではなく、物語。
お伽噺といった方がいいくらい。
読んでいて、挿絵のような情景が瞼に浮かび
あたかも絵本を読んでいるかのような感じになる。
この著者の作品をこれまでいくつか読んでいるけれど、
アニメーション映画にいつかなるんじゃないかといつも思っている。


主人公は、いろいろなことに夢中となって、
あたかも、そのことにとりつかれたかのごとくとなり、
右に出る者がないくらいに熱中して極めてしまうというジュゼッペ。
オペラ、三段跳び、ナッツ投げ、封筒集め.......。

おかげで周りからは人気者だけれども、
過ぎたるは及ばざるがごとしみたいなところもあるし、
それに、飽きっぽいところも玉にきず。

 
そんなジュゼッペに転機が訪れるのが少女ペチカとの出会い。
ジュゼッペの心はペチカにトリツカレてしまうのでした。
彼女と出会ってからの話は、それまでとはガラリと変わって、
ぐっと大人向けのお話の流れになります。

相談相手のハツカネズミと一緒に
一途でピュアな気持ちのジュゼッペが
ペチカのことを一心に思い考え、行動する様が切ないのです。
最後の章では、その後二人がどうなったのかを伝える
後日談みたいな展開にもなっていて、
とっても微笑ましいエンディングになっています。

 
読み終えて笑顔になれる物語。
最近、あまりそういうお話にめぐりあえていなかったかもしれません。
本のページ数も160ページほどです。
お手軽に素敵な暖かい気持ちにさせてくれるお話です。

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トリツカレ男
いしいしんじ
ビリケン出版 2001年

2016年7月20日水曜日

読了メモ「イマジネーションの戦争」芥川龍之介 他



読了。

全20巻になる「戦争と文学」コレクションの第5巻。
20巻は現代編、近代編、テーマ編、地域編に分かれていて
本書は現代編のなかの一つ。

芥川龍之介、安部公房、宮沢賢治ばかりでなく
星新一や筒井康隆、小松左京の他に
三崎亜紀や田中慎弥という最近の作家の作品まで
全部で19作がおさめられている。
懐かしく読めたのは赤川次郎。


ノンフィクションばりの撃ち合う戦争シーンがあるわけではない。
あえて言えばSFと言ってもいいかもしれない。もしくは幻想小説か。
タイムスリップあり、ナンセンスあり。
なかには、ミサイルを擬人化して生き様を語らせる話などもあって、
現実にはない世界の中で戦争が描かれている。
ただ、どれもが妙に肌身にひしひしと迫る感じがあって気持ちがざわつく。

いくつか読んでいて思うに、
戦争状態に置かれるとはどういうことなのか。
それは、人が殺し殺されることではあるが
その極限の境地にいたる前に、
もしくは最前線とは遠くかけはなれたところで
基本的な人権がないがしろにされていくということが
これらのフィクションを読んでいてとてもよくわかる。
また、そのために市井の人々の意識が、
少しづつ少しづつ変わっていってしまう様がとても恐ろしい。


・歴史があるから戦争がおこるんじゃないぞ。
 戦争を起こすために歴史が必要なんだ。

・奉仕活動の中に自衛隊への入隊なんてものがどうして入っていると思う?
 建前はボランティア。現実は徴兵制。

・こんなことになるのなら、それこそ兵役にでも行って
 鍛えられてきた方がいいかもしれない。

・二度と政治に無知な一般大衆に国の運営を任せてはいけません。
 選挙などというものはもってのほかです。政治に携わってよいのは
 深い知識と高い知力を持つエリートだけなのです。


19の作品の一つ一つは、別々の話ではあるけれど
昨今のきな臭い話題が目の前をかすめていると、
とても空想の話ですまされないような気がしてくるのは
たぶん自分だけではないと思う。


芥川龍之介の話は、誰もが子供の頃から知っている「桃太郎」。
だが、桃太郎は英雄ではなく、
鬼を容赦なく切り殺す殺戮者として描かれている。
生き残った鬼が恨みをはらすために復讐にきて
家来の雉や猿、犬を餌食にしたり、
残虐な桃太郎を無数に孕んでいる桃のなる木が最後に出てきて
とても背筋が寒くなる思いがした。

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イマジネーションの戦争
芥川龍之介、安部公房、筒井康隆、伊藤計劃、モブ・ノリオ、
宮沢賢治、小松左京、秋山瑞人、三崎亜紀、青来有一、
星野智幸、星 新一、山本 弘、田中慎弥、稲垣足穂、
内田百間、高橋新吉、赤川次郎、小島信夫
集英社 2011年


2016年7月9日土曜日

読了メモ「語るに足る、ささやかな人生 アメリカの小さな町で」駒沢敏器



読了。

アメリカのスモールタウンを巡るノンフィクション。
訪れる町の人口はせいぜい数百人、多くても二千人程度。

そこに住んでいる人たちの目の前にあるのは、
乾いて広大な土地とはるか東西に伸びている道。
そしてこれまで生きてきた過去。
貧困もあるし、未来が見えないところもある。
ハイウェイにバイパスされて取り残された町もある。
それでも、彼らはその町を離れない。

著者によれば、スモールタウンでは退屈を受け止めている
というのは的外れだったそうです。
むしろ、都会の人の方がずっと退屈している印象を受けたと。
自分たちの町で背負う役割を、
他人の手を借りずにこなさなければならないスモールタウンでは、
実際のところ退屈している暇はないというのです。

ドライブインシアター、牧場、モーテル、カフェ、
ナマズの養殖場、製粉工場、ロデオ、床屋、、、
訪れたスモールタウンにはさまざまな営みがあり、
そのどの住人も、訪れた著者を笑顔で迎え入れ、
喜んで話をし、時には悲しみを打ち明けてくるときもあった。
住人たちは、分け隔てがなくいたってフェアなのでした。


前半はニューヨークからシアトルまで。
後半はニューオリンズから北上して、途中66号線に沿ってカリフォルニアまで。
ノンフィクションですが、著者の語り口からなのか、
読んでいてどこか小説みたいな広がりというか感覚になります。
自分の日常感覚から離れている世界からなのかもしれないし、
逆に、住人と著者のやり取りが地に足のついたものであり、
小さな社会の中で家族で生きていくことの大切さをにじませているからでしょうか。

大きな成功よりも小さな平和を願い、虚栄よりも確実な幸福を、
そして、町の住民のために役立つ自らの誇りを町の人たちは心から望んでいる。
という著者の言葉が印象的でした。

=====================
語るに足る、ささやかな人生 アメリカの小さな町で
駒沢敏器
NHK出版 2005年


2016年7月3日日曜日

読了メモ「総理大臣になりたい」坪内祐三



読了。

次の週末は参議院選挙投票日をひかえている。

そんなおりだからというわけでもないけれど
部屋の積ん読の山から抜き取った一冊。


財界の大物や文化人と親戚関係にあり、
父親がいきなり出版社の社長に抜擢されたり、
いわゆるエリートと呼ばれる人たちと
家族が交流するのを子どもの時から目前にする環境を通じて
著者自身も少しづつ政治家に詳しくなっていきます。
で、詳しくなるとどうなるかというと
ここが面白いところで、嫌いになっていくのだそうです。
ある時期以降の日本の政治家はロクなもんじゃないと感じていたとか。

そのある時期というのは1980年の頃を指しているようです。
ポストモダンという言葉が使われていて
問題を先延ばしする時風のあった頃だそうです。
その頃から少しづつ日本はバブルの時代に向かっていくのです。


戦後の歴代総理大臣を振り返るところでは
中曽根康弘の国鉄民営化と小泉純一郎の郵政民営化の比較が面白い
というか、言われてみれば、同じ民営化でも全然違うことが明白です。
消費税導入、靖国参拝、中選挙区から小選挙区への切り替え。
それぞれの事象の裏にある政治家の思惑や算盤勘定もありますが
著者のいうところの、政治家はロングスパンで政局を見ているのか、
根本的抜本的なことができないまま次の出来事が起きてしまっている、
という指摘は尤もなことだと思いますし、
政治家でなくとも、市民の日々の生活や仕事の中でも
そういう視点をもっておくのは大切なことではないかと思います。

景気を回復させるためには消費を伸ばす必要がある
という考え方を著者は否定しています。
何かを買いたいというのではなく、
安心して暮らしたいという人が多いのではないか。
老後を心配することもなく楽しく暮らせる小さな日本は実現可能で
少ないお金でも幸せに暮らすことを可能にするのは「知性」であると。
そのための教職員の処遇改善や、授業科目の抜本的な見直しをあげていました。
ゆとりや詰め込みとか、進出か侵略かとかは問うていません。


で、肝心の著者自身が総理大臣に今からなるにはどうすればいいか。
それには「首相公選」しかないのですが、
今の日本では、そのやり方は危険だと言っています。
日本国民は、一つの流れができると全員がそれに乗ってしまい
怖ろしいほどの潮流を生むことがあるという指摘もありました。
確かに、このポイントは少し背筋が寒くなる思いがします。


本書は政治に関する専門書でもありません。
なかばユーモアを交えたエッセイのようなものです。
でも、こういう本を読みながらででも
政治や日本という国について考えたり、
思いをはせたりする時間を持つのは大切なことだと思います。

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総理大臣になりたい
坪内祐三
講談社 2013年



2016年6月26日日曜日

読了メモ「世界を変えた野菜読本 トマト ジャガイモ トウモロコシ トウガラシ」シルヴィア・ジョンソン



読了。

いずれも大航海時代を経て、
南北アメリカ大陸から、ヨーロッパ、アフリカやアジアへ
伝播していった野菜たちの物語。
なかには、原産地とは違った食べ方になって、
ブーメランのようにアメリカ大陸に戻ってきたものもある。

トウモロコシ、ジャガイモ、ピーマンを含むトウガラシ、トマト、
インゲンマメ、ピーナッツ、カカオ
この7つの野菜にページが割かれているが
他にも、カボチャ、パイナップル、バニラ、
アボカド、イチゴ、カシューナッツ、キャッサバなど
アメリカ大陸を原産地とする作物が登場する。

旧大陸に持ち込まれ広まったトウモロコシやジャガイモは、
単位面積当たりの収穫量が多かったからというのはわかりやすい。
一方、新しい食べ物がゆえにアレルギーが広まったり、
その見た目の形状からタブー視されていたものがあったりもして
野菜とはいえ、その普及の道のりは平坦ではなかったようです。

トウガラシなどは、まずアジアで短期間に広まり、
そこでのトウガラシ文化がヨーロッパに伝わったそうです。
確かに、漢字でも唐辛子と書くし、
アメリカ大陸が原産とは思ってもみませんでした。
カカオのところでは、キスチョコ型の街灯のあるハーシーや、
ヴァンホーテンの紹介もありました。
好きなココアを飲みながら、ここらあたりを
もうちょっと掘り下げて読んでみたい気にもなります。


本書にも書かれている通りで
およそ、これらの野菜が存在しない現在なんて想像できません。
さすがに、キャッサバまでは食べたことはありませんが
トマトソースのないパスタ、辛くない麻婆豆腐、
ピーナッツの入っていない柿の種、
チョコレートのないお菓子屋...... なんてありえない。

ただ、読んでいてちょっと悔しかったのは、
これらの野菜を使った料理や食べ方がいろいろと紹介されているのですけれど、
カタカナの活字だけではよくわからず、すぐにピンとこないのでした。
料理に詳しい方や、世界各地の料理を体験されている方は
イメージもすぐにできて、きっと一層楽しめるのではと思います。

一方、コロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマ、ピサロやコルテス、
テノチティトランなどの人名や地名が出てきて
高校で世界史を選択していた自分としては
知ってる言葉や記憶の片隅にある懐かしい言葉に出会えて
へんな高揚感を持って読むこともできました。
学生の頃に覚えたことってこんな楽しみ方もあるんですね。

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世界を変えた野菜読本 トマト ジャガイモ トウモロコシ トウガラシ
シルヴィア・ジョンソン
晶文社 1999年

2016年6月23日木曜日

読了メモ「コンセント」田口ランディ



読了。

著者の処女作と言われている小説。

この本を読む前に太宰 治を読んでいたからなのか
死についての捉え方というか、向き合い方の違いを感じ取ることができました。

太宰 治の話は、人の死という現実を目前に置き、
あるいは、いつか来るものとして、それに自分はどう対峙するか、
死と現実との対立というスタンスに立っている話のように思うのですが、
本作の場合は、実兄の死を通して底なしの沼にずるずると入り、
ドライな人間社会と決別して踏み込んでいき、
そこに自分の世界を作ってしまう話のように思います。
こういうのをスピリチュアルというのでしょうか。

オカルト的な話の中で、幻覚はよく登場してきます。
主人公は兄の幻覚を見ているわけですが、
人間の五感のうちで最も鈍感と言われる嗅覚を使って
死臭の粒子を嗅ぎ分けるという幻臭(という表現はなかったが)には
逆にリアルな印象を持ちました。
人の死臭というのはものすごくて、とても耐えられないものだと、
昔、母の口から聞いたことがあったからかもしれません。
本作では、主人公の兄は真夏のアパートで一人で死んで腐敗して発見されるのです。

 
人間は過去の凝縮であるというフレーズがでてきます。
この作品の中には未来が見えないと言ったら言い過ぎでしょうか。
基本的にすべて過去に負い、過去に寄っていると思うのです。
そうなってしまった要因としては、主人公は兄の死顔を現実に見ていないからか。
葬儀屋から、腐敗しているので見てはいけないと止められたのです。
臭いでしか事実を捉えておらず、未来につながる現実を直視していない。


救いの言葉もありました。
人間の心は自分で癒すことができると沖縄のシャーマンに会いに行き

 正しい場所に立てば人は正しい行いをするのです。

と言われます。
この一行がとても救ってくれていると思うのです。
そして、死臭は生き物すべてにあることがわかり、
それは悪臭でなくなるのです。
ただ、最後の最後のところで
結局そっちに行っちゃうのかよって感じで。。。。


タイトルのコンセントですが、
比喩として「コンセント」という言葉を使ってきているのに
「プラグ」という言葉が一度出てくるのです。わざわざ。
読み手としては混乱してしまいました。
そのせいかどうかわかりませんが、
読み終えてのモヤモヤ感が余計に持続します。

と、なんだかんだ言ってますが、著者の本は嫌いではありません。
これまでも何冊か読んできていて、積ん読にもまだあります。


本作の話の鍵を握る映画として
「世界残酷物語」が何度か紹介されます。
3部作のうち3作目が、本作とは関係するようです。
探して観ておこうかと思います。

=================
コンセント
田口ランディ
幻冬舎 2000年

2016年6月18日土曜日

「村上春樹とイラストレーター」観てきました。



最寄駅は西武新宿線の上井草。

ちひろ美術館で開催されている企画展
村上春樹とイラストレーター
を観てきました。

佐々木マキ、大橋 歩、和田 誠、そして安西水丸。
展示されている各氏のイラストのそばには、
村上春樹作品の一節も掲示されていて
それを読みながらイラストを観てまわるのが楽しいです。
また、その装丁や挿絵が施されている書籍の現物も置いてあって
手に取って読めるようになっています。
展示スペースには椅子ももちろんあるので
ついつい手に取って読み耽ってしまったり。

村上春樹作品は、読めていないものがまだありますが
数々の作品にそえられているイラストを観て、
また、普段は表側に出ることの少ない4人の笑顔もしっかりでていますし
読書欲をさらにさらにそそられます。


美術館は住宅街の中にあって緑に包まれ、
常設展示のいわさきちひろの作品や
復元された彼女のアトリエ展示なども充実していて
企画展と併せてとても見応えがあります。
アトリエの前に掲げてあった、
昔に戻るなんてとんでもないという
彼女の文章もとっても素晴らしかったなぁ。

 
ちなみに、混んでいることもなくゆっくり見ることができました。
絵本の充実している図書室も公開されており、
小さいお子さんが遊べる部屋が確保されていたりと
柔らかい雰囲気が美術館全体をつつんでいます。
小さいお子さん連れのご家族も何組かいらっしゃいました。

ただ、企画展の開催期末には混むという噂もちらほら。
気になる方は早めに訪問された方がよいかと思います。
 

2016年6月15日水曜日

読了メモ「走れメロス」「ヴィヨンの妻」太宰 治



読了。

特に6月だからというわけで読み始めたわけではありません。
本編を読み終えた後に、あとがきを読んでいて
あっ、そういえばそうだったかと思い出した程度です。

また、生田斗真のイメージにひかれたというわけでもなく、
他の出版社のでもよかったわけですが、
どちらかというと、この角川のは
文庫版のわりには文字が大きめだった気がしたからです。

 
「走れメロス」の方には、
「富士には、月見草がよく似合う」の「富嶽百景」が入っている。
最後に写真を撮ってあげる話があるけれど、
撮ってすぐ見ることができるデジカメがある今では、
あんなことはとてもできないよね。
好きな「畜犬談」も入ってました。確か、去年も読んだ。
しょうがないなぁってね思う。本当は大好きなくせにって。
どうしてこうも素直じゃないのでしょうね。
最後の「東京八景」では、出てくるオラガビイルをまずは飲んでみたいところ。
確かにしょうもないところはあるものの、自分をマイナスとまで言って
ずずずっと落とし込んでしまうのはどうかと思うけれど
それが逆に跳ね返るバネになればいいのでしょうね。


「ヴィヨンの妻」は比較的明るい話が多いようです。
「パンドラの匣」では、最初の匣の解説がいいですね。
匣の隅にある希望というけし粒ほどの光る石があるっていう。
また、献身とはどういうことかを説いていて、植物の伸びる蔓にたとえて
伸びる先に陽が当たるなんてとてもいいじゃありませんか。
「ヴィヨンの妻」でもいきいきと働く自分を発見しながら
人非人だっていいじゃないと、やはりこれ以上落ちないところまで落ちて
あと生きれば生きた分だけ儲けものっていう上向きな気持ちの矛先が見えるし、
絶筆の「グッド・バイ」だって、ふすま一枚隔てた先には
ガラッと変わる美しい世界があることが見えているし。


今度の日曜日、6月19日ですね。
行ってみようかな。
ちなみに、この2冊の中に「桜桃」はありません。
====================
走れメロス  ヴィヨンの妻
太宰 治
角川書店 

2016年6月8日水曜日

読了メモ「黒い玉 十四の不気味な物語」トーマス・オーウェン



読了。

ベルギーの怪奇短編小説集。

帯には、
 あえておすすめします。
 夜、ひとりでお読みになることを。
とあった。

大きな樹木や天井の高い建物の死角に
何かがいるというような話は、
読んでるそばからぞくぞくしてきます。
例えば、「亡霊への憐れみ」という話の中では
こんな描写が。。。

 知らない家の物音、
 ベッドやワックスをかけた床の匂い、
 窓から今にも侵入してきそうな
 プラタナスの葉のざわめき、
 いつもと違う周りの空間の大きさ、
 ベッドの台のきしみ、
 そんなすべてが、-眠いにもかかわらず-
 われわれを悩ませ、圧迫するのだ。

日本の住居や風土と比べて明らかに余裕のある空間があるけれども
そこに息がつまるような怖さが入り込んできます。
これだけで懸け離れた異空間にトリップしてしまいそうです。


タイトルにもなっている「黒い玉」という話。
表紙のイメージから、まっくろくろすけ的なイメージを持ってしまい、
主人公と一緒にその黒い玉をもてあそんでしまうように
読み進んでしまうのですが。。。。
最後に肩をすくめるような後味が残ります。

他にも、亡骸の消えているお墓や、人形が血を流す話、
密室から忽然と人がいなくなる話など。


先日の鎌倉でのブックカーニバルでご一緒した
こわい本専門の「ちのり文庫」さんにインスパイアされまして
おっかないお話を読んでみました。

梅雨でジメッとした日本の夜に、
異国の幻想小説はいかがでしょうか。

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黒い玉 十四の不気味な物語
トーマス・オーウェン
東京創元社 1993年


2016年6月4日土曜日

読了メモ「僕の虹、君の星 ときめきと切なさのの21の物語」ハービー・山口



読了。

写真家である著者のフォトエッセイ。

物語はたっぷり。
むしろ読み応えがあると言った方がいいくらいで
その上、挟み込まれているモノクロの写真がどれも素敵なんです。
著者のモットーである
人の希望を撮る。
人が人を好きになる様な写真を撮る。
人の心を清くする写真を撮る。
が、見ていて伝わってくるのです。

ロンドンやパリなど海外での生活や仕事で、
孤独に打ちひしがれている時に、
周囲の人がもらした自分への一言が、
自分の生まれながらに持っている個性と誇りに自信を持たせ
それに磨きをかけることが人生だ教えてくれた
と言えることがなんとも素晴らしいです。

また、そんな著者を支えてくれたのが
日本に帰ってこいと一言も言わない両親。
思い切り気の済むまで住み続ければよいと、
大きな期待ではなく、信用してくれていると
子が感じることのできる親子の関係に胸を打たれます。

そんな著者は、中学生の頃、病気を苦に登校拒否に陥りました。
進級もままならないギリギリの状況。
その時、著者を救ってくれたのが写真です。
あの時の辛い思いが、人を優しくする写真を撮りたいという気持ちに駆り立てる。
ハンディキャップと思ってたことが、転じて自分の味方になってくれる。
自分の個性を磨くことは人生の螺旋階段で、決して諦めてはいけない。
自分と語れる多くの友がいて、自分をもっと生かせるまだ見ぬ場所が
必ずどこかにあると信じてというのは大変重みのあるメッセージです。

福山雅治や山崎まさよし、U2などのアーティストの
写真を撮る話もあります。そこで交わされる被写体との会話が
緊張感もあるけれど、信頼をお互いに寄せ合い
いい仕事をしている大人同士の空気を読む事もできます。


最後に、詩が寄せられています。
このエッセイを総括するような詩です。これがまたいいです。
噛み締めて噛み締めて何度も読み直したくなる詩です。

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僕の虹、君の星 ときめきと切なさのの21の物語
ハービー・山口
マーブルブックス 2010年


 

2016年5月31日火曜日

読了メモ「いじわるな天使」穂村 弘




 鎌倉ブックカーニバルの余韻に今も浸りながら 
 古くて新しいお話の世界をまだまだ散策してまいります。
 よろしくおつきあいくださいませ。



読了。

表紙の絵と本文の挿絵は、水丸さんです。
ほのぼのな絵とは似つかわしくない いじわるな話が満載。
なかにはブラックが過ぎる話もある。

著者は歌人でもある。だからかどうかわからないが、
ひとつひとつの話はほんの数ページながら、
読み終えた後の余韻を長く感じられる浸り感があります。

ショートショートと言えば星 新一を思い出すけれど
あちらはSFと称されますね。
こちらは、童話やファンタジーと言う感じでしょうか。
ただし、必ずしもハッピーエンドではありません。


いくつもお話があるけれど
一角獣の話とゼンマイ仕掛けの話が好きかな。

自分はもう角砂糖を飲み物に入れない人になってしまいましたが
この一角獣の話を読むと、ますます入れるのは遠慮しがちになって、
とそう言いながら、角砂糖をスプーンの上で
少しづつ溶かすような、それこそ いじのわるいことをしそう。

ゼンマイ仕掛けの話は命が有限であることを言っているのですけど
なんかそれが、手近なところでなんとかなるんじゃないかという
のりを見せるところが面白い。絶対に無理なんだけどね。


セイレーンという妖精の話も出てきます。
ウクレレの好きな方には、あれ?と思うかもしれませんね。
でも、あの信州長野の妖精と違って、
こっちのセイレーンはおっかないですよ。

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いじわるな天使
穂村 弘
アスペクト 2005年


2016年5月29日日曜日

今年も盛況でした! ブックカーニバル in カマクラ 2016



今年で4回目の参加となりました
ブックカーニバル in カマクラ 2016
天候にも恵まれ、多くのお客様で賑わいました。
お越しいただいたみなさま、ありがとうございました。

出店した会場は、去年と同じく第二会場の古民家スタジオ・イシワタリ
縁側のスペースで本を並べさせていただきました。


10時スタートで、最初のうちは、

 「あれ?お客さんの出足は鈍いかな?」

と思ったのですが、お昼前後あたりから人が増えだしてきました。

ウクレレなお友達や、仕事をご一緒したことのある先輩夫妻などにも会えました。
出店者側で知人をお迎えするのは、心が落ち着くし、
とってもとっても嬉しいものです。
本のお持ち帰りだけでなく、差し入れまでもいただいちゃいました。
ありがとうございました。

お客様のなかには、

 「バリエンさんでは3年連続で本をいただいているんです。
  本に入ってる、ひとことメモも とっといてあるんですよ。」

とおっしゃっていただいて、今回も2冊、お持ち帰りになりました。
いや〜これは感慨無量なお言葉でした。涙が出そうになりました。


いろいろと本を選んでは悩まれて、一度は会場を離れて、
でも、終了間際に急いで戻ってきて、

 「やっぱりこの本もください!」

とか、

 「あれ?さっき金井美恵子の本なかったでしたっけ?」
 「いや、あれはついさっき出ちゃいましたよ。」
 「え〜っ、失敗した〜、あの時、貰っておけばよかった」

など、こういうお客様とのやりとりも楽しみの一つではあります。



そして、恒例の打ち上げ。
会場に来ていただいたお客様、
実行委員やスタッフ、関係者の皆さんに感謝しつつ乾杯。
ビール、美味かった!




実は、去年の秋にも参加した小田原ブックマーケットでは、
朝に本の運搬に使ったスーツケースの車輪が壊れ、腕がちぎれそうな思いをしました。
今回は、ご覧のキャリアに乗っけて運搬。壊れないことを祈りました。
それと、自宅の部屋の積ん読も大変な状態になっていて、
机上の空きスペースもキーボードの幅くらいしかない状態にまでなっています。

なので、少しでも帰りは荷物を軽くしたい、減らしたいなぁと思っていたのです。



それも、おかげさまで軽くすることができました。
行きと帰りで荷物の重さが違う実感と喜びを一緒に噛み締めながら
家路についたのでした。

今回も参加することができて、本当によかったです。
実行委員代表のBooks Mobloの荘田さん はじめ皆さんありがとうございました。

また、面白い本をたくさん読んでいきたいと思います。


2016年5月24日火曜日

もうすぐ開催! ブックカーニバル in カマクラ 2016



2016年の開催も、今度の土曜日、5月28日とせまりました。


ご用とお急ぎでない方は、鎌倉が紫陽花で超大混雑になる直前に
散策ついでにいかがでしょうか。ぜし!!

ブックカーニバル in カマクラ2016
日時:5月28日(土) 10時〜夕方(古本市は16時で終了です)
場所:第一会場 由比ヶ浜公会堂
   第二会場 古民家スタジオ・イシワタリ
   第三会場 鎌倉市中央図書館

わたくしめは、今年も懲りずに
「バリエン」で古本市に素人参加いたします。
第二会場に出店いたしますです。
みなさまのお越しをお待ち申し上げております。

会場や近隣のお店でスタンプラリーのスタンプを集めると
特製エコバッグが今年ももらえるそうですよ。
帰りに古本や鎌倉土産を詰める袋が必要な貴方には必須のアイテムかと。