2022年4月25日月曜日

読了メモ「悲鳴をあげる身体」鷲田清一




読了。

体が軋む音をあげるほど痛いとかそういう話ではありません。
たしかにフィジカルな影響は出てくるのかもしれませんが、
社会的、精神的な側面からの要請やストレス対して、
身体とは誰のもので、どう扱われるのか。
果ては命とはという倫理的、哲学的なお話です。

まず、身体は誰のものなのか。
もちろん、自分のものとは言えますが、
現代ではもはや自分の所有物と豪語する身体を
自分でコントロールすることはできなくなっている。
何か調子がおかしいと思えば医者に行き、その処置に身を委ね、
いくつもの薬を処方され、手術台でメスを入れられることもある。
そんな状態になったのは、身体を管理することを怠るからだ
という自分の身体を客観視する観念も一方にはある。
もっと言うと臓器移植にあたっては、自分の臓器が他人の身体の一部になる。
他人の身体の中にある臓器は誰のものなのなのだろうか。
となると、そもそも「私」って何?
という根源的な問いに突き当たってくる。

では、自分の身体を感じる時とは。
人から見られている時、
介護を受けている時、
母親から見られていることを感じる時。。。。
誰の前での私の命なのか。
私の身体は完全に自分の所有物として自由であるのか。

そして「私」が、私でなくなる臨界とは。
それは死であるが、私の身体が死体になった時、
脳死の状態を私の死とする時、
身体の他の部位はどうなるのか。
私の人称は消滅し、非人称になるというのか。

こう考えてくると、身体って誰のものなのかが
うすぼんやりとしてくるように感じる。
少なくとも、自分の意のままになるものではない。
というのは確かなようだ。

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悲鳴をあげる身体
鷲田清一
PHP研究所 2021年


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