2016年6月26日日曜日

読了メモ「世界を変えた野菜読本 トマト ジャガイモ トウモロコシ トウガラシ」シルヴィア・ジョンソン



読了。

いずれも大航海時代を経て、
南北アメリカ大陸から、ヨーロッパ、アフリカやアジアへ
伝播していった野菜たちの物語。
なかには、原産地とは違った食べ方になって、
ブーメランのようにアメリカ大陸に戻ってきたものもある。

トウモロコシ、ジャガイモ、ピーマンを含むトウガラシ、トマト、
インゲンマメ、ピーナッツ、カカオ
この7つの野菜にページが割かれているが
他にも、カボチャ、パイナップル、バニラ、
アボカド、イチゴ、カシューナッツ、キャッサバなど
アメリカ大陸を原産地とする作物が登場する。

旧大陸に持ち込まれ広まったトウモロコシやジャガイモは、
単位面積当たりの収穫量が多かったからというのはわかりやすい。
一方、新しい食べ物がゆえにアレルギーが広まったり、
その見た目の形状からタブー視されていたものがあったりもして
野菜とはいえ、その普及の道のりは平坦ではなかったようです。

トウガラシなどは、まずアジアで短期間に広まり、
そこでのトウガラシ文化がヨーロッパに伝わったそうです。
確かに、漢字でも唐辛子と書くし、
アメリカ大陸が原産とは思ってもみませんでした。
カカオのところでは、キスチョコ型の街灯のあるハーシーや、
ヴァンホーテンの紹介もありました。
好きなココアを飲みながら、ここらあたりを
もうちょっと掘り下げて読んでみたい気にもなります。


本書にも書かれている通りで
およそ、これらの野菜が存在しない現在なんて想像できません。
さすがに、キャッサバまでは食べたことはありませんが
トマトソースのないパスタ、辛くない麻婆豆腐、
ピーナッツの入っていない柿の種、
チョコレートのないお菓子屋...... なんてありえない。

ただ、読んでいてちょっと悔しかったのは、
これらの野菜を使った料理や食べ方がいろいろと紹介されているのですけれど、
カタカナの活字だけではよくわからず、すぐにピンとこないのでした。
料理に詳しい方や、世界各地の料理を体験されている方は
イメージもすぐにできて、きっと一層楽しめるのではと思います。

一方、コロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマ、ピサロやコルテス、
テノチティトランなどの人名や地名が出てきて
高校で世界史を選択していた自分としては
知ってる言葉や記憶の片隅にある懐かしい言葉に出会えて
へんな高揚感を持って読むこともできました。
学生の頃に覚えたことってこんな楽しみ方もあるんですね。

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世界を変えた野菜読本 トマト ジャガイモ トウモロコシ トウガラシ
シルヴィア・ジョンソン
晶文社 1999年

2016年6月23日木曜日

読了メモ「コンセント」田口ランディ



読了。

著者の処女作と言われている小説。

この本を読む前に太宰 治を読んでいたからなのか
死についての捉え方というか、向き合い方の違いを感じ取ることができました。

太宰 治の話は、人の死という現実を目前に置き、
あるいは、いつか来るものとして、それに自分はどう対峙するか、
死と現実との対立というスタンスに立っている話のように思うのですが、
本作の場合は、実兄の死を通して底なしの沼にずるずると入り、
ドライな人間社会と決別して踏み込んでいき、
そこに自分の世界を作ってしまう話のように思います。
こういうのをスピリチュアルというのでしょうか。

オカルト的な話の中で、幻覚はよく登場してきます。
主人公は兄の幻覚を見ているわけですが、
人間の五感のうちで最も鈍感と言われる嗅覚を使って
死臭の粒子を嗅ぎ分けるという幻臭(という表現はなかったが)には
逆にリアルな印象を持ちました。
人の死臭というのはものすごくて、とても耐えられないものだと、
昔、母の口から聞いたことがあったからかもしれません。
本作では、主人公の兄は真夏のアパートで一人で死んで腐敗して発見されるのです。

 
人間は過去の凝縮であるというフレーズがでてきます。
この作品の中には未来が見えないと言ったら言い過ぎでしょうか。
基本的にすべて過去に負い、過去に寄っていると思うのです。
そうなってしまった要因としては、主人公は兄の死顔を現実に見ていないからか。
葬儀屋から、腐敗しているので見てはいけないと止められたのです。
臭いでしか事実を捉えておらず、未来につながる現実を直視していない。


救いの言葉もありました。
人間の心は自分で癒すことができると沖縄のシャーマンに会いに行き

 正しい場所に立てば人は正しい行いをするのです。

と言われます。
この一行がとても救ってくれていると思うのです。
そして、死臭は生き物すべてにあることがわかり、
それは悪臭でなくなるのです。
ただ、最後の最後のところで
結局そっちに行っちゃうのかよって感じで。。。。


タイトルのコンセントですが、
比喩として「コンセント」という言葉を使ってきているのに
「プラグ」という言葉が一度出てくるのです。わざわざ。
読み手としては混乱してしまいました。
そのせいかどうかわかりませんが、
読み終えてのモヤモヤ感が余計に持続します。

と、なんだかんだ言ってますが、著者の本は嫌いではありません。
これまでも何冊か読んできていて、積ん読にもまだあります。


本作の話の鍵を握る映画として
「世界残酷物語」が何度か紹介されます。
3部作のうち3作目が、本作とは関係するようです。
探して観ておこうかと思います。

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コンセント
田口ランディ
幻冬舎 2000年

2016年6月18日土曜日

「村上春樹とイラストレーター」観てきました。



最寄駅は西武新宿線の上井草。

ちひろ美術館で開催されている企画展
村上春樹とイラストレーター
を観てきました。

佐々木マキ、大橋 歩、和田 誠、そして安西水丸。
展示されている各氏のイラストのそばには、
村上春樹作品の一節も掲示されていて
それを読みながらイラストを観てまわるのが楽しいです。
また、その装丁や挿絵が施されている書籍の現物も置いてあって
手に取って読めるようになっています。
展示スペースには椅子ももちろんあるので
ついつい手に取って読み耽ってしまったり。

村上春樹作品は、読めていないものがまだありますが
数々の作品にそえられているイラストを観て、
また、普段は表側に出ることの少ない4人の笑顔もしっかりでていますし
読書欲をさらにさらにそそられます。


美術館は住宅街の中にあって緑に包まれ、
常設展示のいわさきちひろの作品や
復元された彼女のアトリエ展示なども充実していて
企画展と併せてとても見応えがあります。
アトリエの前に掲げてあった、
昔に戻るなんてとんでもないという
彼女の文章もとっても素晴らしかったなぁ。

 
ちなみに、混んでいることもなくゆっくり見ることができました。
絵本の充実している図書室も公開されており、
小さいお子さんが遊べる部屋が確保されていたりと
柔らかい雰囲気が美術館全体をつつんでいます。
小さいお子さん連れのご家族も何組かいらっしゃいました。

ただ、企画展の開催期末には混むという噂もちらほら。
気になる方は早めに訪問された方がよいかと思います。
 

2016年6月15日水曜日

読了メモ「走れメロス」「ヴィヨンの妻」太宰 治



読了。

特に6月だからというわけで読み始めたわけではありません。
本編を読み終えた後に、あとがきを読んでいて
あっ、そういえばそうだったかと思い出した程度です。

また、生田斗真のイメージにひかれたというわけでもなく、
他の出版社のでもよかったわけですが、
どちらかというと、この角川のは
文庫版のわりには文字が大きめだった気がしたからです。

 
「走れメロス」の方には、
「富士には、月見草がよく似合う」の「富嶽百景」が入っている。
最後に写真を撮ってあげる話があるけれど、
撮ってすぐ見ることができるデジカメがある今では、
あんなことはとてもできないよね。
好きな「畜犬談」も入ってました。確か、去年も読んだ。
しょうがないなぁってね思う。本当は大好きなくせにって。
どうしてこうも素直じゃないのでしょうね。
最後の「東京八景」では、出てくるオラガビイルをまずは飲んでみたいところ。
確かにしょうもないところはあるものの、自分をマイナスとまで言って
ずずずっと落とし込んでしまうのはどうかと思うけれど
それが逆に跳ね返るバネになればいいのでしょうね。


「ヴィヨンの妻」は比較的明るい話が多いようです。
「パンドラの匣」では、最初の匣の解説がいいですね。
匣の隅にある希望というけし粒ほどの光る石があるっていう。
また、献身とはどういうことかを説いていて、植物の伸びる蔓にたとえて
伸びる先に陽が当たるなんてとてもいいじゃありませんか。
「ヴィヨンの妻」でもいきいきと働く自分を発見しながら
人非人だっていいじゃないと、やはりこれ以上落ちないところまで落ちて
あと生きれば生きた分だけ儲けものっていう上向きな気持ちの矛先が見えるし、
絶筆の「グッド・バイ」だって、ふすま一枚隔てた先には
ガラッと変わる美しい世界があることが見えているし。


今度の日曜日、6月19日ですね。
行ってみようかな。
ちなみに、この2冊の中に「桜桃」はありません。
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走れメロス  ヴィヨンの妻
太宰 治
角川書店 

2016年6月8日水曜日

読了メモ「黒い玉 十四の不気味な物語」トーマス・オーウェン



読了。

ベルギーの怪奇短編小説集。

帯には、
 あえておすすめします。
 夜、ひとりでお読みになることを。
とあった。

大きな樹木や天井の高い建物の死角に
何かがいるというような話は、
読んでるそばからぞくぞくしてきます。
例えば、「亡霊への憐れみ」という話の中では
こんな描写が。。。

 知らない家の物音、
 ベッドやワックスをかけた床の匂い、
 窓から今にも侵入してきそうな
 プラタナスの葉のざわめき、
 いつもと違う周りの空間の大きさ、
 ベッドの台のきしみ、
 そんなすべてが、-眠いにもかかわらず-
 われわれを悩ませ、圧迫するのだ。

日本の住居や風土と比べて明らかに余裕のある空間があるけれども
そこに息がつまるような怖さが入り込んできます。
これだけで懸け離れた異空間にトリップしてしまいそうです。


タイトルにもなっている「黒い玉」という話。
表紙のイメージから、まっくろくろすけ的なイメージを持ってしまい、
主人公と一緒にその黒い玉をもてあそんでしまうように
読み進んでしまうのですが。。。。
最後に肩をすくめるような後味が残ります。

他にも、亡骸の消えているお墓や、人形が血を流す話、
密室から忽然と人がいなくなる話など。


先日の鎌倉でのブックカーニバルでご一緒した
こわい本専門の「ちのり文庫」さんにインスパイアされまして
おっかないお話を読んでみました。

梅雨でジメッとした日本の夜に、
異国の幻想小説はいかがでしょうか。

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黒い玉 十四の不気味な物語
トーマス・オーウェン
東京創元社 1993年


2016年6月4日土曜日

読了メモ「僕の虹、君の星 ときめきと切なさのの21の物語」ハービー・山口



読了。

写真家である著者のフォトエッセイ。

物語はたっぷり。
むしろ読み応えがあると言った方がいいくらいで
その上、挟み込まれているモノクロの写真がどれも素敵なんです。
著者のモットーである
人の希望を撮る。
人が人を好きになる様な写真を撮る。
人の心を清くする写真を撮る。
が、見ていて伝わってくるのです。

ロンドンやパリなど海外での生活や仕事で、
孤独に打ちひしがれている時に、
周囲の人がもらした自分への一言が、
自分の生まれながらに持っている個性と誇りに自信を持たせ
それに磨きをかけることが人生だ教えてくれた
と言えることがなんとも素晴らしいです。

また、そんな著者を支えてくれたのが
日本に帰ってこいと一言も言わない両親。
思い切り気の済むまで住み続ければよいと、
大きな期待ではなく、信用してくれていると
子が感じることのできる親子の関係に胸を打たれます。

そんな著者は、中学生の頃、病気を苦に登校拒否に陥りました。
進級もままならないギリギリの状況。
その時、著者を救ってくれたのが写真です。
あの時の辛い思いが、人を優しくする写真を撮りたいという気持ちに駆り立てる。
ハンディキャップと思ってたことが、転じて自分の味方になってくれる。
自分の個性を磨くことは人生の螺旋階段で、決して諦めてはいけない。
自分と語れる多くの友がいて、自分をもっと生かせるまだ見ぬ場所が
必ずどこかにあると信じてというのは大変重みのあるメッセージです。

福山雅治や山崎まさよし、U2などのアーティストの
写真を撮る話もあります。そこで交わされる被写体との会話が
緊張感もあるけれど、信頼をお互いに寄せ合い
いい仕事をしている大人同士の空気を読む事もできます。


最後に、詩が寄せられています。
このエッセイを総括するような詩です。これがまたいいです。
噛み締めて噛み締めて何度も読み直したくなる詩です。

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僕の虹、君の星 ときめきと切なさのの21の物語
ハービー・山口
マーブルブックス 2010年