2016年2月23日火曜日

読了メモ「それからはスープのことばかり考えて暮らした」吉田篤弘




読了。

映画に出てくる人に思いをよせたり
大家さんのマダムがサンドイッチ屋に好意をよせる話はあるが
基本的には主人公に色恋の話もない硬派な小説なのかもしれない。
それでも、なぜかほんわか淡い色合いで彩られる。

陽に当たった教会の十字架が窓から見える部屋、
路面電車で行くお客の少ない映画館、
数字の3が印刷された紙袋の美味しいサンドイッチ屋「トロワ」
夜鳴きそばのメニューひとつしかない「幸来軒」
そして、おいしいスープを教えてくれる緑色の帽子のあおいさんの部屋。


サンドイッチ屋を手伝い始めるあたりは、ややまどろっこしいが、
駅前の店に負けじとメニューにスープを加える頃になってくると、
俄然、話に勢いがついてくる。まさに、タイトル通りの展開。
美味しいスープが目の前に出てきそうになるし、
思わず自分でも作ることをイメージしてしまう。

途中、スープの話から離れて、つぶれそうな映画館を助けたり、
写りの悪いテレビ受信機を大事にしたり、
そして、亡くなった人の手巻き時計の話で、
スープ作りと独立並行しながら時間が流れていく。
あたかも当初のスープから風味が変わっていくことを示唆するような感じを受ける。


スープそのものは、冷めないうちにいただいた方が美味しいけれど、
「作り方」を作るには時間をかけてみた方がよさそうです。
どんな時にも同じように美味しいスープを作るためには
レシピに忠実に作ることと言っているのだけれど、
巻末の「名なしのスープのつくり方」を貴方はどう読みますか。


美味しいサンドイッチ屋は自分の住んでいる街にもあります。
そこは、この小説とは違って、おじさんとおばさんのご夫婦で
朝早くからサンドイッチを作っています。中身の具はもちろん手作り。
定番のタマゴやハムだけでなく、コロッケサンドとか美味しいですよ。
今度の週末、久しぶりに行ってみようかな。

とすれば、スープはどうしようか。。。。

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それからはスープのことばかり考えて暮らした
吉田篤弘
暮しの手帖社 2006年




2016年2月20日土曜日

読了メモ「落語家論」柳家小三治



読了。

落語論ではない。落語家論である。
といっても、落語家たるものこうあるべし
のようなことも書いてはあるが、
おおかたはいずれのことにも相通じる話が多い。

特に前半は、「紅顔の噺家諸君!」として、
若い噺家に向けて書かれたメッセージで

 師匠なんてのは弟子を育てるなんてのはできないぜ。
 キミは、そのうち誰かが助けてくれると思っていないか?
 自分はどういうやり方で噺家という一生を過ごしていくのかを考えた方がいいと思う。

など、噺家の世界に身を置いていなくても
とっくに紅顔でなくなっていても、身の引き締まる話がでてくる。

また、噺家という生業への誇りを感じ、
聞いてくださるお客様のことを考える話として
「機内放送の落語」は、ごもっともとしか言いようがない。
最近の機内放送の設備がどうなっているのか
ここんところ飛行機に乗っていないのでわかりませんが。。。


他にも、協会の変遷や名人会など落語界ならではの話題ばかりでなく
著者自身の趣味のバイクツーリングやボーリング、
塩にこだわっていることや芸能界を鼻濁音で切ってみたりと
話題が多岐にわたっていて、ありがちなタコツボ感がないのもいい。



落語の本は数年前に古今亭志ん朝のを読んだことがあった。
その時も今回もそうだが、活字にリズムがあって
トントントンと読み進めることができる。
江戸っ子の話言葉だからなのだろうがそれにしても面白い。

そんな言い回しで、こんな話を読むとしみじみもするし
わくわくもしてしまう。

 自分に何歳までの天寿があるか知らないが、マラソンで言えば、
 折り返し点をもう過ぎてしまったことはどうやら間違いではないらしい。

 年をとるということは、予想に反して、実に面白いものであるようだ。
 これから先も、少しづつ年をとっていく。楽しみで楽しみでしょうがない。

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落語家論
柳家小三治
筑摩書房 2009年
 
 

2016年2月14日日曜日

読了メモ「雨の日はソファで散歩」種村季弘




読了。

2年ほど前、著者の企画展が東京の板橋区であった。
ちょっと遠かったのだが、えっちらおっちら観に行ったことがある。

それ以来、著者の本を読もう読もうと思っていたところ
今回、最後のエッセイ集となった本書と出会うことができた。
部屋の本棚には著者の他の本はあるのだけれど
ついつい、気になっている作家の本を見つけると手にしてしまう。


作家仲間と飲み交わした話や東京の良き街並みの話、
晩年を過ごした真鶴での話までいろいろ。
茅ヶ崎にも住んでいたことがあったらしい。

その中で、日常食としての豆腐、幼児食への帰還の話は
意外にも首肯するところが多く、
自分も「食」について、そんな嗜好に向かうように
なってきたのかと思ってしまった。
実際のところ、以前に実家で、近所の豆腐屋製の
木綿豆腐を丸々一丁、薬味にネギとミョウガと鰹節で
いただいたことがあって大変美味しかったのを思い出してしまった。
著者によれば、デパートで買ってくる高い豆腐はごちそうであって
日常食ではないのだ。


東京の街並みについても
著者が若い頃は銀座がモダンだったが
今、銀座が古風になったのでまた行きたい
という感覚もわかるような気がするものの、
飲み屋に入っても、だらだらとねばらないという指摘があり
こっちはまだまだ自分の修行は足りないなぁと痛感。

そんな味のある話もあれば、若い女性との会話の中で、
藤村ゆかりの宿の話は単純に笑えたエピソードだった。

 
そして、最後の真鶴私邸でのインタビューに基づく
酒豪伝の話は、そうそうたる作家や
文化人の名前が連なり痛快で面白い。
作家なんてのはみんな引き篭もりだ なんて言ってはいますけど。

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雨の日はソファで散歩
種村季弘
筑摩書房 2005年
 

2016年2月9日火曜日

読了メモ「謝るなら、いつでもおいで」川名壮志




読了。

2004年6月に長崎県佐世保市でおきた「小6同級生殺害事件」

自分は読み始めるまで、正直、はっきり思い出せなかった。
凶器のカッターナイフというキーワードが目に飛び込むまでは。。。
加害者の女の子は、同級生の女の子を給食の時間に呼び出して
その首をカッターナイフで切り殺害した。

被害者の女の子の父親は、大手新聞社の佐世保支局長で
本書はその直属の部下である記者が書いたルポルタージュ。


前半は、自らマスコミに身をおきながら
間近におきた凄惨な事件に向かい合うジレンマがつづられる。
著者の勤務していた佐世保支局はビルの2階にあり、
真上の3階は支局長の自宅だった。
著者は被害者である女の子の普段の生活を知り、
言葉を交わし、ときには家族のように夕食を共にした。
遊びにくる友達のことも知っていた。
その友達の中に加害者の女の子もいたという。

著者は記者としてペンを走らせなければならないのだが、
仕事に専念すればするほど、自分のことを人でなしと追い込んでしまう。
先の見えない濃い霧のようなものが著者の前からなくならない。

中盤では、なぜこんな事件が起きてしまったのかを追う。
しかし、核心に迫りつつも明確な答えは見つけることはできない。
加害者である当時11歳の女の子の口からは何も聞くことができなかった。
それは、本人の性格や言動だけでなく、
このような事件を引き起こしてしまった子どもに対する
法律や社会の仕組みが影響をおよぼしていたのも背景にある。


最後は、事件に関係する3人の大人へのインタビューをまとめたもの。
その3人とは

 著者の上司でもあった被害者の父親
 加害者の父親
 被害者の兄


この章こそ本書の肝といえる。
当事者である彼らの微妙な心の変化、
複雑な思いが生々しく、大変貴重な記録でもあると思う。

それぞれの娘への思いを募らせ、自らを律しようとする
二人の父親の姿がそこにあるのだが
一歩間違えば崩れ落ちてしまいそうな脆さもみえる。

そして、最後の最後、お兄ちゃんの話はとても考えさせられる。
直接的な表現をとってはいないが、生きることの厳しさ、
その尊さを感じることができると思う。
このお兄ちゃんのパートは是非多くの方に
読んでもらいたいと思うほど。
彼の言う「普通に生きる」という言葉に確かに甘えはない。
本書のタイトルも、お兄ちゃんが加害者に対して発している言葉だ。


被害者は12歳で命を絶たれたが、
加害者の女の子は、もうすでに大人になっている。

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謝るなら、いつでもおいで
川名壮志
集英社 2014年
 



2016年2月6日土曜日

二つの写真展



久しぶりに写真展を観に行きました。どちらも入場料は無料。

 野町和嘉 天空の渚 2月14日まで 竹芝 Gallery916
 島崎ろでぃー 銃撃 2月7日まで 渋谷Galaxy銀河系

二つだけだったので、ゆっくり観ることができましたよ。

竹芝のは大きなサイズで圧倒されました。
サイズだけでなく、フレームをめいっぱい使った山や廃船が迫ってきます。
特に浜に打ち上げられて真っ赤に錆びていた船の写真がよかったです。
色合いといい、切り取り方といい、
ここにピンを合わせていくのかってところとか。

渋谷のはもう明日2月7日までなんですが、
こちらも迫真。凄まじいともいえるポートレート。
各コーナーごとに書かれている本人のコメントが効いています。
撮影するにあたっての、カメラを構える際の
自身の心のあり方とか、考え方をきちんと正視している姿勢が読みとれて
観ている写真のリアリズムをより高めているようです。


最近は、カメラを持って出歩くことは出歩くのですが、
ついでに持ち歩いている状態が多いので
実のところほとんど撮っていないのでした。
今日、刺激を少しいただいたので、どこかに撮りに行こうかな。。。。

 

2016年2月4日木曜日

父親として夫として


先日、岳父が他界し、
葬儀を本日無事に執り行いました。

出棺前の最後のお別れのとき、
棺のそばで泣き崩れた妻の姿が
今でも瞼の裏に焼きついています。
その彼女の後ろには、
見つめて寄り添っている母親がいました。


昨年の9月には自分の父親を亡くしたので
この半年で、両方の父親がいなくなったことになります。
ジュニアも、いつのまにかお祖父ちゃんが二人とも
いなくなってしまったなぁとつぶやき、
こうやって世代交代をしていくんだよねと
移動中の車のなかで話を交わしました。


自分も父親であり夫であり、
いつかはジュニアや妻と別れるときがきます。
もしかしたら先立たれることがあるかもしれません。

これからの残された人生のなかで
自分は何ができるのか、何をするのか。
私の最も身近にいた二人の男性は
もう何も言ってはくれませんが、
大きなメッセージを残してくれたような気がします。