2016年3月30日水曜日

読了メモ「死を悼む動物たち」バーバラ・J・キング



読了。

表紙にある象の表情、貴方にはどのように見えますか。
動物たちには悲しみにうちひしがれる感情があるのでしょうか。
近親の仲間を偲ぶ気持ちを持ち合わせるのでしょうか。

犬や猫、ウサギにはじまり、
ヤギなどの家畜やカラスや白鳥などの鳥、
そして、類人猿、象、イルカなど
数多くの動物たちで観察された驚くような事象をたどりながら
死について、同種間異種間における交流や友情について
動物行動学の観点から考察していきます。


ペットとして飼われる犬や猫、家畜など
身近な動物たちを取り上げる前段のところでは
人間による飼育環境下で人間好みの解釈、
きっと人間の気持ちと同じに違いないと
人間側が動物たちの頭の中を勝手に作り上げて
なおかつ、すべての動物がそうだと決めつけてしまっている。
とそんなふうに思って読んでいました。

しかし、その見方は象のところで大きく変わります。
チンパンジーやゴリラなど人間に近い類人猿の話よりも
自分には象のみせた行動のインパクトは大きかった。


親しい仲間や、親、子供の死に対峙した時に
思わず寄り添いたくなるような行動をする動物たちが実際にいます。
でも、その行動が本当にどういうことを意味することなのかは
数多くの事例から人間が推測するしかありません。
本書の中では、動物の自殺についての話もあり、
ここまでくると動物たちと話ができないのが本当に歯がゆく思います。


最後は、人間にも触れて、原始人は死をどう考えていたのか
進化の過程を経て、死に対する思いを人間はどのように深めてきたのか
と、読み進めてきた時、本書の範囲を逸脱して
この先の未来のことがよぎります。

将来、大きな発展を遂げるであろう人工知能。
死や命について、喪失を伴う悲しみについて、
彼は、はたして考えるようになるのだろうかと。


本書を読み終えて、表紙の象の写真をあらためて見直すと
不思議とやけに悲しげな目をしているなと見えてしまうのです。

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「死を悼む動物たち」
バーバラ・J・キング
草思社 2014年


 

2016年3月23日水曜日

読了メモ「不器用な愛」串田孫一



読了。

エッセイ集ではなく、断想集。
数行しかない短文ばかりなのだが
ひとつひとつの話にスパイスが効いていて
ピリピリッとくる文章もあれば、
3行くらいなのに、ズドンと撃ち抜かれることもある。


以前にも書いたが、自分は本を読む時に付箋紙が欠かせない。
少しでも気になった部分に印をつけておくためだが
本書は、もう付箋紙だらけになってしまった。
何に気を留めたのかがわからなくなるくらいで、
まるで高校生の頃の日本史の教科書のようだった。

それでも、今、こうやってブログを書きながら、一つづつたどっていくと
嚙みしめ甲斐のある文章や厳しい語句に再び会う事ができる。

愛はすべて不器用である。

寂しさは怒りに変わり易い。
またそれ以上に怒りは寂しさに変わり易い。

人生の歩みに緩急はない。廻り道もない。
眠っている間も人は歩き続けている。

暫定的な手段でしかあり得ない諦めに、
いつまでも腰を下ろしているのを羨んではならない。


他にも紹介したい文章や言い回しがもっとあるけれど
キリがないのでこのへんにしておく。

これまで、何冊か著者の本を読んだことがあり
いつも心の底をサルベージされるというか
胸のうちが清く正しい流れのようになる感覚になる。
ハッと気づかされて天井を仰いだり、
まさに気持ちを正されたりすることが多い。

なので、また時を置いてこの人の本は読む事にしたい。

心静かに読むって本当にいいと思う。

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不器用な愛
串田孫一
彌生書房 1995年


2016年3月19日土曜日

読了メモ「スープの国のお姫様」樋口直哉



読了。

表紙に描かれている絵と
登場する「千和」という女の子のイメージは
ちょっと違うと思う。千和はもう少しキリッとしている。

主人公は、古い洋館に雇われたシェフ。
その洋館の主人であるマダムは、スープしか口にしない。
千和はマダムの孫娘で、洋館の中に自分の書庫を持ち、
料理に関するあらゆる本を読破している。

主人公は洋館を訪れる客人のリクエストや
ケータリングサービスに応じたスープを作っていく。
話の章立てもそのスープの名前になっている。

1.ポタージュ・ボンファム
2.ビールのスープ
3.ロートレックのスープ
4.偽ウミガメのスープ
5.せかい1おいしいスープ

ただ、「味がどこか違う」とか「何かが足りない」と言われ、
千和の料理についての豊富な知識や
洋館の執事であり優秀な給仕であるキサキのアドバイス、
料理の材料をすぐに届けてくれるモリノの協力をえながら
主人公のスープはずっと追い求めてきた味に少しづつ近づいていく。

途中、マダムの妹が出てくる。
妹も別の洋館に住んでいて、話の中では、
不思議の国のアリスのハートの女王みたいと書かれているけれど
自分としては、千と千尋の神隠しの湯婆婆と重なる。
執事のキサキと共に、このマダムの妹が後半の展開の鍵を握る人でもある。


著者自身が料理人でもあることから、
洋館のキッチンの雰囲気や細かい描写が目に浮かび、
スープを作るくだりの部分は読んでいるだけで
美味しいスープの香りがただよってきそう。
また、ミステリーのようなハラハラな展開とは言えないけれど、
探しているスープに徐々に近づき包囲網が狭まっていくところも面白い。

なお、ロケーションは、
湘南地方の別荘地だった頃の面影が残る一角と
書かれていて鎌倉っぽいけど、
自分の感じでは大磯なのかなとも思っている。

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スープの国のお姫様
樋口直哉
小学館 2014年

2016年3月16日水曜日

読了メモ「詩めくり」谷川俊太郎


日付の書いてある一日一ページに短い詩が載っている。
最初のページが1月1日で、最後のページが12月31日。
読了メモとしているけれど
次の日の詩を読むことを繰り返すので読み終わることがない。


日めくりカレンダーにあるような
格言めいたことが書いてあるわけではない。
詩なので、どこかふわふわしている時もあれば、ズンとくる時もある。
その時の感情や気持ちのかげんによって
全く響かないときもあるが、それはそれで構わないと思う。

来年の同じ日の同じ詩を読む時は
今日とは違った感想をきっといだくのだろう。
詩は同じでも、読み手の環境や
心理状態は1年前とは異なっているのだから。


詩を読む時は、少なくとも2回は読むようにしている。
本書の詩は短いけれど、やはり2回は読む。
短いのだから2回くらいは読めと言ってもいい。
朝でも夜でも、少しの時間で構わない。
1分もかからないかもしれない。
それぐらいのゆとりはせめて持ちたいものだ。

そして、読まない日があってもいい。1年後に読めばいいのだから。


ところで、この本を読了する時ってどういう時なのだろうか。


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詩めくり
谷川俊太郎
マドラ出版 1994年



 

2016年3月13日日曜日

東日本大震災被災現場写真展



鎌倉市役所の小さな会議室に、一日限りで開催されていた
東日本大震災被災現場写真展をみてきました。

総枚数104枚。

 巨大なタンクがおしぼりのようにひしゃげている
 幅わずか2mの堀にトラックの頭が吸い込まれている
 高校校舎の3階に自動車がひっくりかえっている
 ジェットコースターのようにJRの線路が螺旋状に曲がっている

写真そのものは言葉を持ちませんが、
そこにみえる現実の酷さ、津波のエネルギーの大きさ、
そして、被災された方々の姿を伝えていました。
写真一枚一枚には、撮影当時者のコメントが
数行添えられていて、それもまた臨場感をかきたてます。

自分は言葉を失うばかり。

5年前、自分はあの日、徒歩で帰宅しました。
その途中、街のディスプレイに流されていたニュース映像で
津波が陸地や川を遡っていく映像を見た記憶があります。
今回、改めて惨状の一部を目の当たりにし、
抗うことのできない自然の力の大きさをあらためて感じました。


2年ほど前、石巻と女川に行った時、
被災地のあまりの広大さに胸が詰まったことを思い出しました。
この美術館にもいつか行ってみたいと思います。


写真展会場の外では、東北支援のイベントが開催されて
多くの模擬店も出店し、サンマやホタテなどをたくさんいただきました。

 

2016年3月10日木曜日

読了メモ「最後の授業 心をみる人たちへ」北山 修



読了。

まずは、コレを。



著者は、この歌で280万枚の日本初のミリオンセラーを打ち出した
ザ・フォーク・クルセダーズの北山 修氏。
他にも「戦争を知らない子供たち」や「あの素晴らしい愛をもう一度」、
「さらば恋人」などなどご存知の通り。

そして、医学博士で精神分析医。
本書は教鞭をとっていた九州大学を退官する時の授業の様子。
フォークル解散後、学問の道に進み、医学博士、精神分析医となり、
大学で臨床心理学を教えていたことなどは全然知らなかった。


本書にある講義の内容は大きく三つ。
「テレビのための精神分析入門」
「私の精神分析 罪悪感をめぐって」
「精神分析か芸術かの葛藤」

将来、心を取り扱う専門家を目指す若者たちへの
きめの細かいメッセージにあふれている。
それは、心理学などもかすったことのない
自分のような素人にもわかりやすく、丁寧に話をされているのが伝わる。
本を読もうにも距離感のあったフロイトのことなども
ぐっと身近に感じることができたのは嬉しかった。


著者がずっと言っているのは、
パーソナル・コミュニケーションということ。
人間一人一人と向き合い、マスコミュニケーションでは取り扱わない、
心の裏を見る覚悟を持てと言っています。
それは厳しさやつらさを感じるときもありますが必要なことなのですね。
では、どうすれば、心の裏に接することができるのか。
その手法の紹介も書かれてありました。

そして、人間が鏡を求める理由は何か。
答えはシンプルなんですが、そこから、
セルフモニタリングという考え方に話が広がっていきます。

中盤は、鶴の恩返しの話から、
罪悪感をキーワードに、自身の精神分析の話になります。
悪かったなと噛みしめているときに、
「私」がいるという感覚を覚える
というのは、結構ショックを受けました。
でも、それを感じることで人間は強くなっていくというのです。


この本、いつかまた読み直してみたいです。

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最後の授業 心をみる人たちへ
北山 修
みすず書房 2010年



2016年3月5日土曜日

読了メモ「うし小百科」栗田奏二



読了。

導入部分は、世界における牛の分布や
家畜としての牛の特徴が紹介されていている。
ところどころ、スマートなイメージの
馬と比較されているのが読んでいて面白い。

古代オリエントどころかもっと古い時代からの家畜としての歴史や、
乳・肉・役の三つの役割を担った品種の多さから、
牛が人間の生活にいかに古くから関わってきたかがわかる。

乳、肉や内臓は勿論、舌や尻尾まで食するし、
田畑を耕し運搬するにも牛の力は必要だったし、
医療の面では、天然痘を抑制するのに役立ったり、
神がやどり信仰の対象になっている地域もある。
牛と人間との関わりは長くて深く広い。


さて、牛についての本や文学、雑話って何があっただろう。。。

この本でちょっとだけ紹介されていて懐かしい思いがしたのは、
牛が自分の歯を馬に貸したのだけれど、
返してもらえなくなって、結局、牛の前歯がなくなったという話。
どうやらベトナムのお話らしいが、
子どもの頃に読んだか聞いたかしたことがある。

俳句では、「春風や牛にひかれて善光寺」なんてのは有名かな。

故事ことわざも意外に多く、それだけ牛は身近な存在だったのでしょう。
実力で支配することを「牛耳る」とよくいうけれども、
本来は、「牛耳を執る」ということで
もともとは、牛の耳を割く牛刀を執る卑者のことだったとか。

「牛の尻」ってどういう意味だかわかりますか?
牛の鳴き声の「モウ」にかけて、「物識り」という意だそうです。


歴史的な事件との関わりでは
生類憐みの令の時代、赤穂浪士の大石内蔵助が
堀部弥兵衛へ牛肉を贈ったことがあったとか、
桜田門外の変では、井伊直弼が
牛肉登城の儀式を廃止したことも背景にあるとか、
日本は肉食というより、魚というイメージがあるけれど
牛もかなり入り込んでいるようです。

ちなみに、日本で初めて牛乳が用いられたのは
7世紀の中頃、ちょうど大化の改新の頃で
当初は薬用で使われていたと。


牛はうしでも丑もありました。
「土用の丑の日」
これは、かの平賀源内が、鰻屋を繁盛させるべく
土用の丑の日に鰻を食べると病気にならないという貼り紙を
出させたのが始まりだとか。
なんか、今でもこういう日ってお菓子業界にもありますね。


う〜ん、牛肉食べたくなってきた。
牛丼屋に行ってきます! 

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うし小百科
栗田奏二
博品社 1996年