2016年8月28日日曜日

講演会メモ 私の本について話そう「港、モンテビデオ」+その場小説「港」 いしいしんじ



横浜は山手にある神奈川近代文学館で開催された
いしいしんじさんの講演会に行ってきました。
題目は、私の本について話そう「港、モンテビデオ」+その場小説「港」

前半は、会場のその場で「港」という短編小説を書くという試み。
A3の無地の紙に、思いつく文章を読み上げながら鉛筆で書き、
書きながら読み上げていく。その舞台は、三浦半島の三崎。
本人も実際十年間ほど三崎に住んでいたそうです。
自分も三崎には何度か遊びに行ったことがあるので
情景も重なりなかなか不思議な体験をすることができました。

後半は、昨年刊行された「港、モンテビデオ」にまつわる話。
15分ほどのプロモーションビデオまでありました。
同じく三崎が舞台なのですが、そこでモデルとなった
魚屋のおばちゃんも会場にゲストで来ていて
自分の座席の前に座っていた方だったのです。
物語の裏話が進むにつれて、目頭をおさえるような仕草もありました。

やっぱり、虫のしらせとか、因縁とかいうのはあるのでしょうか。
そうとしか思えないような不思議な話を聞くことができました。
実は、まだこの本を読んではいないのですが
おかげさまで、いしいしんじワールドの深いところに
またまたはまってしまいそうです。

会場には、モデルとなったおばちゃんの他に
奥さんと息子さんのひとひ君が最前列にいました。
講演会の間、このひとひ君が元気に動いていて落ち着きません。
最初のうちは、
「なんなんだろう、この子は。せっかく聞きに来ているのに
 講師の子どもとはいえ五月蝿いなぁ。」
と思っていたのですが、だんだんとそういう思いは消えていきました。
というか、これもいしいしんじの世界なのだと。
壇上を動き回るひとひ君を止めようとするわけでもありません。
講演中にひとひ君とやりとりをする場面もあって、一緒に楽しんでいるのです。

また、写真がなくて残念なのですが、講師の来ていたシャツは
ローリングストーンズの唇ロゴがたくさんプリントされた派手なもので、
ひざ下までのスエットのようなパンツにサンダルといういでたちでした。
小説家の講演ということで、多少なりとも気構えていた
こっちが恥ずかしくなりました。

ということで、講演会後には、二人のサインを
しっかりといただいたのでした。


2016年8月26日金曜日

読了メモ「遊覧日記」武田百合子



読了。

エッセイを読んでいると
書かれている文章が好きという作家が
ぼんやりと浮かび上がってきます。
小説とかの文章でではなくて、いわゆる「つぶやき」の文章です。

自分の場合は、城山三郎、向田邦子、串田孫一あたりがあがってきて、
そして、この武田百合子。
いつもいつも読んでいるわけではないのだけれど
古本屋などでこの人たちの本を見つけてしまうと、
つい手にとってしまい、条件反射のようにもなりつつある。
村上春樹や坪内祐三のエッセイは確かに面白いけれども
そういう意味では自分の中ではちょっと違う。


本書では、浅草、青山、代々木、隅田川、
上野、藪塚、富士山、京都、世田谷と訪れて
細かいところを観察しながらつぶやいている。

花屋敷と剥製小屋、そして大黒屋の天丼。
浅草のあのあたりの情景がありありと浮かんできて嬉しくなり、
伝法院通りを抜けてホッピー通りに行きたくなる。

隅田川では、老女5人の酒盛りが面白い。
誰も人の話なんか聞いちゃいないのだ。
思ったことを傍若無人に喋りまくるだけ。
全く会話が成り立っていないのに盛り上がっている。

遊園地付き演芸場では前方座席に20名ほどしかいなかったり、
昆虫館の虫はみんな死んでしまっていなかったり。

藪塚ではスネークセンターの話。
実は自分も子どもの頃、親に連れて行ってもらったこともあったので
ここの話もまた妙なリアルさを感じることができた。

つぶやきの話のネタとしては面白い話があるけれど
この人の文章はどこか天空の上まで通じていて、
かすかに尊い話という印象が残る。
そんな文章なのです。うまく言えないけど。


途中、著者の娘で写真家でもある「H」が登場してきます。
この親子の会話の楽しさに加えて、娘へ注がれている視線が素敵です。
そして、各章の中に写真が1ページ挟まっていて
その写真は、もちろんHが撮ったもので、
最後の「あの頃」という章の中にでてくる聖橋の写真がよかったなぁ。

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遊覧日記
武田百合子
中央公論社 1995年



2016年8月19日金曜日

読了メモ「憑かれた鏡 エドワード・ゴーリーが愛する12の怪談」E・ゴーリー 編




読了。

怪奇小説のアンソロジー。
それぞれの話の扉では、エドワード・ゴーリーの
独特の線画による挿絵がむかえてくれる。
収録作品の書き手は、C・ディケンズやB・ストーカー、
W・W・ジェイコブズなど、知ってる作家が多いのも楽しめる。

今年は、6月にも14の怖い話をまとめた本を読みましたが、
怪談のオンシーズンであるこの季節に
もう一冊と思って積ん読から手に取りました。

6月の時と比べると、こっちの方がオカルト度は高いようです。
というか、人間そのものが持つ業の深さや信念の奥底というものに
顔が思わずひきつり、ぞっとするのです。
三つまでのどんな願いも叶うという猿の手の話、
死体を常に手に入れなければならない死体泥棒をはたらく解剖医学者の話、
息子の夢に出てきた悪魔のような女のことを七年間覚えている母親の話など。

また、登場人物は数少ない一人か二人しかいないのに、
そこで展開される恐怖感があいまって、暗い闇の世界がわっと広がり
読んでいるのに何者かに追われている感じを受ける。そんな話もありました。
小高い丘と鉄道のトンネルを情景とした信号手の話や
教会の中に佇む大理石の軀の話など。


エドワード・ゴーリーについては、
いつだったか彼の絵の展示を観に行ったことがあり、
とても強い印象がずっと残っていました。
ゴシックホラーという言葉があるけれどそれとも違うし、
幻想というと逆に鮮やかすぎてしまってまた異なるし。
細い黒い線で描かれている影や闇の隙間から、
その向こう側に静かに存在するものが
見えてくるような.....、そんな挿絵がたまりません。

まだまだ、暑い日が続きます。
冷房の効いた静かな部屋で読んでみませんか。

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憑かれた鏡 エドワード・ゴーリーが愛する12の怪談
エドワード・ゴーリー編
河出書房新社 2006年


2016年8月14日日曜日

映画「フォトグラファーズ・イン・ニューヨーク」


この夏は久しぶりに映画を観ました。

でっかい映画館で、怪獣が出てくる映画も観たんですけどそれはそれで。
こちらはミニシアター系です。

フォトグラファーズ・イン・ニューヨーク




ニューヨークの街角や人ごみの中で写真を撮る。
恐怖とまではいかなくても、
ビビってしまうのは自分だけでしょうか。
でも、15人の写真家のインタビューは情熱にあふれ、
この街の人の写真を撮りたいのだ、撮りたくてしょうがないんだ
という気持ちに満ちています。そもそも皆さんの「目」が違う。

タイトルにニューヨークとあるけれど
撮影される被写体としてフォーカスがあたっているのは、
街そのものではなくニューヨークを行き交う人、住んでいる人。
もちろん、この街が持つ力や背景がベースにあって、
そこに魅力的で様々な人々がいるわけですが、
ストリートフォトって、ストリートにいる人を撮ることなんですね。

彼らは常にカメラを持ち歩いていて、
いつも肩からかけていて、チャンスを逃さない。
この当たり前すぎるこだわりと被写体を目指す眼力に圧倒されます。
彼らのカメラはほとんどがフイルムのカメラでした。
デジタルカメラを持っている映像もありましたが
デジタルだと撮った写真の整理ができないんだよというコメントもありました。


自分はフイルムでもデジタルでも写真の整理は満足にできないし
ストリートフォトを撮りに行く根性もないけれど
う〜ん、レンジファイダーとか欲しくなるなぁ。





2016年8月11日木曜日

読了メモ「1973年のピンボール」村上春樹



読了。

なんだかんだで、積ん読の中に
村上春樹の名前が書かれた本がいっぱいある。
それと先日、ちひろ美術館へイラスト展(既に終了)を
観に行ったこともあって、これを読んだ。

「僕」の話は双子の女の子との生活。
何もモノのない部屋というので小綺麗な部屋を思い浮かべたけれど、
よく読んでみると、アパートの管理人室にしか電話がなかったり、
配電盤の交換に業者が立ち入ったり、セータの脇が綻んでいたりと
実はぐっと庶民的な空間や情景だった。

例によって並行する「鼠」の話の中では、
カウンターのジェイとの会話がたまらない。
いかにも村上春樹というか。。。

例えば、ジェイはこんなことを言う。

「人はどんなことからでも努力さえすれば何かを学べるってね。
 どんなに月並みで平凡なことからでも必ず何かを学べる。
 どんな髭剃りにも哲学はあるってね、どこかで読んだよ。
 実際、そうしなければ誰も生き残ってなんかいけないのさ。」

なんてのは、精神というか脳みそをくすぐられてしまうのです。


僕がおめあてのピンボールを探しだし、
格納されている倉庫に電気を点けて入るところは印象的。
佇むピンボールの群像と電源を入れて彩りと賑やかな音とともに動き出す様は壮観。
そして、この後に再び鼠の話になり、
鼠は街を出て行くことになるのですが
霊園の林の端で車を降りて、街の夜景を眺めます。
これがピンボールの電飾のイメージと重なるのです。

それで、いつもの通り、読み終えてモヤモヤ感があとをひきますが
きっとまた読みなおすんでしょう。

次は「羊」ですかね。


高校の同級生に、自宅にピンボールを持っている奴がいたことを思い出しました。
まさか冗談だろうと遊びに行ったら、
本当に畳敷きの部屋にピンボールがあって、
電気を入れるとちゃんと動いて遊べてしこたま驚きました。
彼は確かデザイナーかになってアメリカに住んでいるんだと思います。
今はどうしてるだろう。
自宅にピンボールを置くなんて、
本書の影響を受けたのかどうかはわかりません。
再会する機会があったら聞いてみるか。

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1973年のピンボール
村上春樹
講談社 1980年

2016年8月6日土曜日

読了メモ「砂漠でみつけた一冊の絵本」柳田邦男




読了。

最近、絵本を読んだことがありますか?

著者によると、人生には
絵本を読む時期が三度あるそうです。

・自分が子どものとき。
・子どもたちのために読み聞かせるとき。
・人生の後半に自分のために読むとき。

絵本は子どものためだけにあるのではありません。
著者は大人になった自分のために絵本を読むことを勧めていて
2003年には、心の砂漠にうるおいを として24冊、
続く2004年には 言葉と心の危機の時代に として27冊、
大人のための絵本のプロジェクトをおこしています。

自分も児童書や子供向けの本や物語を読んだメモを、
なんどかこのブログにも書いていますが、
そこに込められている深いメッセージや
膨らむイメージ、ファンタジーな世界観は
それはそれは素晴らしいものでした。
きっと「絵本」もそうなんですね。
本書では、著者の「大人のための絵本」の活動を通じて絵本に接し、
大きく心を動かされたり、これからの生き方を励まされた
という大人たちのいろいろな声も数多く紹介されています。


この本を手にした時、てっきり物語だと思っていました。
本当の砂漠をさすらい飢えや渇きに苦しむなかで
主人公は絵本を見つけ、そこから物語がひろがっていく話と勝手に勘違い。
「砂漠」とは、大人の乾いた心のことを言っていたのですね。
そこで見つけた一冊の絵本は、
著者の言っている「座右の絵本」になるのでしょうか。。。

何度か紹介されている一冊が部屋の積ん読の中にあったり、
古本屋でちらっと見かけたタイトルがあったり、
またまた本読みや古本屋巡りが楽しくなりそうです。

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砂漠でみつけた一冊の絵本
柳田邦男
岩波書店 2004年


2016年8月2日火曜日

読了メモ「星の詩集」「あたまの底のさびしい歌」宮沢賢治



読了。

久しぶりに賢治さん。しかも詩集。
 
もう一冊は、親友や弟、父親に宛てた書簡集。
こっちも手紙というより「詩」なのです。
散文詩とでもいいましょうか。

最初、詩集だけと思っていたのですが
読み終えて、物足りなくなってというか
もっと宮沢賢治の描く風景を覗いてみたくなり
積ん読の中にあったやや薄めの一冊を続けて読みました。


「星の詩集」では、なんとも言えない
色味の情景が浮かんでくるのです。
夏の真っ黒な夜空に蠍座のアルタイルの赤。
鉱物のことはあまり詳しくないんだけれど
蛇紋岩とイリドスミンに空が染まっていて、
その空の下には、また違う黒色か褐色の
大地がうねっているわけです。
うまく言えないけど、大地と夜空の奥側にある色が
浮かびあがってくる感じがするんです。
銀河と名のつく駅や鉄道も出てきてさらに世界が広がります。

夏のささやかな思い出とお盆の送り火を思い浮かべながら
冬に亡くなった妻のことをうたった詩などもありました。
ここでも蒼白いという色がでてきて
言葉の線も細くて最後は寂しいのですが好きな詩です。


書簡集の方も、宇宙や鉱物が相変わらず出てくるけれど
さらに仏教の教えや題目がでてきます。
星の詩集とくらべて、こっちはぐっと骨太なイメージです。
今を破壊する「しっかりやりましょう」が21回も唱えられています。
まだ、まだ、まだ、まだこんなことではだめ なんだそうです。
 
化石になるなと言い、真理と正義をそれぞれ正しく理解しているか、
我々は勘違いしていないだろうかと自戒をこめています。
真実を追い求めてもがいているのか、
よく言われる「本当の幸せ」を探す気負いのようなものが
手紙の中に溢れているようです。

 
また間をおいて、童話や物語の方も読んでみようと思います。
 
=============
星の詩集
宮沢賢治
星の手帖社 1996年

あたまの底のさびしい歌
宮沢賢治
港の人 2005年