2016年1月31日日曜日

読了メモ「この空を飛べたら」中島みゆき




読了。

CDではありません。みゆきさんの小説です。
7つの短編がおさめられています。

帯には連作長編小説とありました。
そういえば、他のお話のオマージュみたいなものが
ところどころにあったので、絶妙なところで
すべての話はつながっていたのかもしれません。
また、全体が収斂されて最後の一編が出来上がっているとも言えます。

ただ、個人的には、そんなに束ねてしまうことはできないほど
一つ一つの話は濃いと思いますし、
小説なのに比重の大きい物質のように感じました。

鋭利なナイフというよりも、
鈍い鉈の刃でずぶっと押し込まれるような感覚があって、
それでいて、見えない壁にぶち当たるような硬い感触もあります。
どうもうまく言えないのですが、
中島みゆきワールドなんでしょうか。


もちろん、読後には歌も聴きました。

おときさんが歌ってヒットしたこの曲ですが、
みゆきさんの声で聞くとこの小説の読後感が
さらに奥深く広がってしみこんできて浸ることがきます。
是非ここは、みゆきさんの声で聞いてほしいです。

ちなみに、最後以外のお話のタイトルには
すべて鳥の名前がついています。
人は昔、鳥だったのかもしれないから.....ですね。


確か、実家にみゆきさんのCDがあったな。
今度、探しに行こう。

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この空を飛べたら
中島みゆき
新潮社 1991年


2016年1月30日土曜日

読了メモ「優雅で感傷的な日本野球」高橋源一郎



読了。

野球。
ゴールデンタイムのナイター中継はなくなってしまいましたが
それでも、野球は日本人の心と体に染み込んでるものかと思います。

この連作小説は、正直に言えば難しいです。
単に「野球」という言葉に惹かれて読み始めても
なんだこりゃ?!的なことになるかもしれません。
自分も読みこなせたかどうかわかりません。

ただ、読んでいるうちにだんだんと
野球というものが、ベースボールというスポーツとしてだけではなく
日本人の生活やものの考え方、交わす会話の中に
深く根ざしているものということがじんわりとにじんできます。
タイトル通り、ベースボールではなく、
野球でもなく「日本野球」なのです。

スポーツはあらゆる観点でデータで記録されます。
野球もしかりで、難しい解析などせずとも
いつどこの試合で、何回の表か裏で、アウトカウントがいくつで
ランナーがいて、何番の打者への何球目に
どんな球種が投げられ打たれたかなどが克明に記録されます。

この9回表裏にわたる攻防の54のアウトカウントの中に
ひたむきな選手たちの姿も重なって
いつのまにかストーリー性が生まれていく。
選手だけでなく、監督やコーチ、場内アナウンス、
内外野にいるファン、そして報道される言葉にまでも。

最後の1985年の阪神タイガースが優勝したことについての話が
パロディなのでしょうが、妙にあとをひきます。
選手たちは言うのです。
・おれたちがやってるのは野球じゃない。
・(ファンの人は)試合なんか見ちゃいないよ。
 試合経過は家に帰ってから「プロ野球ニュース」を見ればわかるのさ。
と。


自分も野球とは全く関係ない会話の中で
野球用語を使って話をしたことがあります。
思い当たるかたは、「日本野球」に
浸ったことがあるのではないでしょうか。

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優雅で感傷的な日本野球
高橋源一郎
河出書房新社 1988年


2016年1月26日火曜日

浦沢直樹展に行ってきた。


先週末、世田谷文学館で開催中の

浦沢直樹の漫画にどっぷり浸かっていたわけではないけれど
会場内は圧倒されるの量の原画があって見応えがありました。

MASTERキートンとか、PLUTOとか、まとめて読みたくなったなぁ。
20世紀少年も映画ではみたけど、漫画では読んでいないのでした。

あと、浦沢直樹ってミュージシャンでもあるんですね。知らなかった。

世田谷文学館って、ちょっとばかし遠いんですが
面白い企画展をしてくれるので要チェックしてるところです。




実は、浦沢直樹展に行く前に、江口寿史展 KING OF POP にも行ってきました。
こっちにはもう年末にも行っていて、いっぺん観ているのですが
年明けに展示替えするからとまた行ったくらいでありますw。

残念がら、スケッチしてもらうイベントの抽選は外れてしまったけど。
丸ごと一冊江口寿史のユリイカはいただいてきました。


2016年1月24日日曜日

読了メモ「ティンブクトゥ」ポール・オースター




読了。

飼い主の名前はウィリー。犬はミスター・ボーンズ。
読み始めたとたん、あれ?飼い主と犬の名前を取り違えたか??
と思ったがそうではなかった。

ティンブクトゥというのは来世のこと。
ほどなく、ウィリーはこの世を去ってしまう。
残されたミスター・ボーンズは彷徨い
新しい飼い主に出会えることもあれば
厳しい残酷とも言える野良な生活を続けることもある。

そんな時、ミスター・ボーンズは
夢や妄想の中でウィリーと話をして
元気づけられ励まされ、ある時は試される。

そして最後、ミスターボーンズは、
ウィリーのところに帰っていきます。


ミスター・ボーンズは、人間が話しかけてくることは
細かいニュアンスはわからないまでも、おおかたのところ、
少なくとも飼い主の気持ちは理解をしています。

そして、時には事態を少しでも好転させるために、
鳴き声や尻尾、跳ね回る動きで
返事をしたりするところがいじらしい。
 
逆に、人間のそばにいるだけで
やりきれない話の聞き役になり、
言葉を交わせないけれど、
人間を励ます役になったりもしています。

飼い主の思いに寄り添って、
犬が生を全うしているという
ちょっと切ない気持ちになるお話です。

ウィリー以外の飼い主にも出会えるわけですが、
ただ、「飼われる動物」である以上、
彼らは人間の支配下から外れることができない。
そこが、読んでいて一番つらく感じたところかな。

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ティンブクトゥ
P・オースター 柴田元幸 訳
新潮社 2006年
 

2016年1月19日火曜日

読了メモ「あのころの未来 星 新一の預言」最相葉月


 
読了。

星 新一のショートショートにまつわるエッセイ。
というか、コラムかなという感じもする。
エッセイとコラムの違いをよく理解していないけれども。


中学生の頃あたりになるのだろうか、
星 新一の本を自分はそれほど読んでいたわけではない。
その超短編の形に、変な抵抗感や偏見みたいなものを
あの頃には持っていたような気がする。
しかし、それも今は昔。
今回、この本を読んで俄然として
星 新一を読みたくなってきたのは言うまでもない。

実は一昨年に、星 新一を一冊読んでいるけれど
この本にあるような感覚や発想までには至らなかった。
まだまだ読みが浅かったのだろうか。

本書は、特に医学や生命に関する視点で切り込んでいる話が多い。
臓器移植、クローン、健忘症、人工授精、代理母、。。。そして、死。
人間だけでなく地球上のあらゆる尊い生命に手を下していく
星 新一の描く未来の人間とその倫理観を問う。
思わず胸がつかえそうになる。

たぶん、中学生の頃に星 新一をたくさん読んでいたとしても
本書のような思考や考えの発想は持たなかっただろう。
むしろ、このような評論とも言える切り口を一度通してから、
オリジナルを再び読むことができるというのは
それはそれで大人ならではの読み方ではないかと思う。

そういう意味で、あの頃読んだあんな小説とかこんな話とか
もう一度読んでみたいと思っている本がたくさんあるのです。

 
本書の中で取り上げられていた話の中に
「ナンバー・クラブ」というのがあった。
まさにこれは、今の「マイナンバー」とどんぴしゃ。
名前や住所、電話番号だけでなく、医療情報、資産やお金の流れ、
趣味や交流関係までが、10数桁の番号でつながっている社会。
そして、この「ナンバー・クラブ」の会員になることで生じるリスクが
最後に紹介されています。
う〜ん、そこまで行きついてしまうのかなぁ。。。。。
などと、いろいろ考えさせられる一冊です。


さて、あとがきまで読み終えた後、なぜかあの歌が聴きたくなりました。
本のタイトルで思い当たる歌がありませんか?
ここ最近話題の5人組の歌です。
 

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あのころの未来 星 新一の預言
新潮社
最相葉月 2003年


2016年1月16日土曜日

細野さんの講座



細野晴臣さんの講座を聞いてきました。
講座のタイトルは、「音と耳の可能性〜聴くことと発すること」

朴訥な感じでボソボソボソと話すのですけど
その声から発する話は神秘的な感じもしました。

印象的だったのは、
音を聴くことは受け身でなく、能動的行為であり、
自分はミュージシャンである前にリスナーであるということ。
そして、magicというよりhookのある音楽を作りたいと。

細野さんは、歌の歌詞や喫茶店での会話よりも
メロディーでありBGMで流れる音楽の方を聴いてしまう。
歌詞も昔は意味ではなく響きだった。
歌詞が意味を持って音楽に入ってきたのは、細野さんによれば
「幸せの黄色いリボン」からだそうです。


細野さんも、今年で69歳、来年は70歳。
先日亡くなった同じ年齢のD.ボウイとの逸話から、
パクリとマネは違うという話になりました。
パクリは形だけだが、マネは魂から。
興奮するようなマネをしたいそうです。

また、ここ数年「ブギウギ」に終始していて
8ビートとスウィングの混在がたまらないと。

途中、天河神社や猿田彦神社での奉納演奏にちなんで
民族楽器での即興演奏をしてくれたり
最後にはそのたまらないブギウギや、
自分は8分の6拍子が好きなんだとギターで歌も聴かせてくれました。

細野さん独特の深みのある話で
なかなか濃ゆい3時間でした。

  

 

2016年1月13日水曜日

読了メモ「この世には二種類の人間がいる」 中野 翠



読了。

いわゆる、あるある!のエッセイです。

二種類といっても50話もあるので、
様々な種類やパターンに出会えます。
ひっくるめて言ってしまえば
あっち側の人とこっち側の人ということになりますか。

そして、自分はこっち側にいるけれども、
あっち側の気持ちも、たまにはわからないではないという話もあれば
全く意に介さず、ありえない、絶対だめ!ってのもある。
著者本人の思い込みにすぎない部分も多々あるのでしょうが
出てくる話が、そうだよねぇ、そうそうってのが結構多かった。

その二種類の組み合わせを目次からいくつかご紹介しましょう。
なお、個々のお話は、本のタイトルである
「この世には二種類の人間がいる」を受けた形でできあがっています。

・それは、嫌いな言葉を持てる者と持たざる者だ
・それは、「キチッと」と言う人と「ザッと」と言う人だ
・それは、あのかたをヤワラちゃんと呼べる人と呼べない人だ
・それは、「おめもじ」と書ける人と書けない人だ

などなど。
ちなみに、嫌いな言葉云々にでてくる言葉とは、
「ノミニケーション」とか、「歌をば歌う」の「をば」とか。


ただ、最後になって、人間は二種類の分類でおさまるはずがなく
そもそも、---タイプ、---系、---派、---族と
人を評するのを好きになれない と言うのです。
二種類の人間がいると言い出したのは
著者自身なのにと思う一方で、でも確かにその通り。


思い込みや、先入観、偏見で物事や人物を一方的に見てしまう
「ステレオタイプ」と言う言葉を耳にすることがあります。
この本のタイトルをみて、自分が最初に思い浮かんだのはこの言葉でした。

けれど、この本の中だけでさえ50組の人間の見え方がありました。
二種類の見方はもっともっとたくさんありそうです。
ということは、いろんな角度や視点、切り口を変えて人間をみてみると
およそステレオタイプな見方や発想なんてのはありえなくて
人間ってのは、多彩で曖昧で混沌としているという
著者の指摘の通りではないでしょうか。

翻って、自分自身のことについても型にはめたり決めつけたりして
見たり考えたりしてしまうのも無理があるよねと感じたのでした。


最後に本題と外れますが、執筆された時期が
2003年から2007年とちょっと前なので
引用される事象やときたま出てくる人物像が
当たり前ですが微妙に今とズレています。
そんなところもニヤついて読めるのでお楽しみください。

あと、文章だけでなく、表紙や中の装画も
著者本人が描いています。

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この世には二種類の人間がいる
中野 翠
文藝春秋 2007年




2016年1月11日月曜日

谷根千で古書店巡り



上野の博物館で兵馬俑を観たあとは、
ちょっと足を伸ばして谷根千へ。

この界隈もすっかり有名になって
連休も多くの人で賑わっていました。

お邪魔したのは、谷中ぎんざ入り口の
夕焼けだんだんの上にある「古書 信天翁」さん。
実はこのお店もビルの2階にあるのですが
前回ご紹介した鎌倉のMobloさんと同じく
路上に無人で古本や雑誌、レコードなどを置いていて
会計は2階までお客様が持ってあがるというものでした。
古本の世界ではごく普通な売り方なのかもしれないですねw

谷根千は海外からの観光客も多く、
日本の雑誌をもの珍しそうに手にしていた外国人に
どこで買えばいいですかと聞かれたので
ビルの2階にお店がありますよと教えてあげました。

近くではベーゴマ回しを無料でやっているし
アイドルとなっている猫を写真に撮っていたり
道端で一杯飲んでいる人もいるし、
自由でのんびりした時間が流れている街です。

ちょうど訪れた翌日からでしたが、
新しい古本屋さんが開店するという話がありました。
覗いてみたら開店準備中で忙しそうでしたよ。

他にも3軒ほど古本屋さんを周りました。
どのお店も個性的ですし、
そもそも街全体が歩いていて楽しいところです。

また、散策と巡回に来たいですね。

 

2016年1月10日日曜日

上野で兵馬俑


上野の東京国立博物館で開催中の
特別展「始皇帝と大兵馬俑」を観てきました。

会場は博物館内にある平成館の2階。
第一会場では、秦やその前後の時代の武具や宝飾品、
始皇帝にまつわる解説やビデオ映像など
今回の特別展のいわばプロローグ。

そして、第2会場で、銅車馬が迎えてくれて、
続く大きな会場で複数体の俑を観ることができます。

もちろん、限られた博物館のスペースですので
何千体もの俑があるわけではありません。
それでも、一人一人の顔の異なる歩兵、騎兵、御者、将軍などの
実物展示をみると始皇帝の巨大な権力を背景に怖い感じもするほどです。
ほぼそのままの形で発掘されている現場の写真なども迫力があります。


自分は、高校生の時、社会科では世界史を選択していました。
なので、展示の解説を読んでいると懐かしい響きの言葉がでてきたりして、
そういう意味でもこの種の展示や、同じ敷地内にある東洋館は好きなのです。

また、いつもは音声ガイドとかは使わない方なのですが
今回のナビゲーターは、壇蜜が担当しているという看板に誘われて
耳元で艶っぽい壇蜜の声を聞きながら見学をしてしまったのは内緒ですw


そして、博物館を出る時、ちょっと嬉しいお知らせにも遭遇!
今後予定されている特別展や企画展示のチラシをもらいましたが
なんと、その中にアレがあったのです!!
個人的にはかなり期待してます。なんてったって科博だし!!!
楽しみだなぁ!!!!絶対行くぞ!!!!


2016年1月8日金曜日

読了メモ「猫がゆく サラダの日々」 長田 弘



読了。

詩人 長田 弘さんによる女の子と猫の物語。

読み始める前は、長田さん風の我輩は猫である的なお話かなと
装丁やタイトルからそう勝手に思っていたが、はたしてそうではなかった。

2年ほど前に前作の「ねこに未来はない」を読んでいて、
そちらは、ゆるい感じのエッセイだった。
本作は、ぐっと哲学ちっくであるように思う。
別な言い方をすれば、42の章からなる散文の形をした詩のようなものか。

登場するネコもネコらしくない。
なんせ、名前がウサギ。
ウサギと呼ばれながら、藤細工のトランクに入った
ほとんど動かない年老いたでぶなネコ。
名前やネコで連想するイメージとは真逆に近い。

このネコの飼い主が、ジュジュという女の子。
漢字で、自由自由 と書く。
仕事は楽しみで労働は強制、何のために?という問いが嫌い、
蜜柑箱と称する地下鉄(銀座線のこと)だけがジュジュにとっての地下鉄で、
街の中では、何やか屋という言葉を売り買いするお店のある
赤いライオン横丁が好きな場所。

なかでもエレベータの話が印象に残る。
32階しかない建物なのに、なぜ35階までエレベーターの数字があるのか。
6階と書いてはあるが、そこは本当に目指す6階なのか。
実はエレベーターとは飛んでいるのではないか。
と、不思議な堂々めぐりの世界に入り込んでいく。
でも、読んでいて、足元がふわりと浮くようなこの感覚は、
その昔、夢か空想か何かで感じたことのあるようなものだった。
うまく思い出せないけど、遠い記憶の中にかすかに残っている。


以前も書いたけれど、長田さんの文章には、
行間から滲み溢れてくるところを味わう面白さがとってもあると思います。
昨年、亡くなられたのが残念でなりません。

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猫がゆく サラダの日々
長田 弘
晶文社 1991年
 

2016年1月4日月曜日

映画「写真家 ソール・ライター」


正月休みの最終日に映画を観ました。

巷で人気のハリウッド映画ではなくて
ミニシアター系です。

「写真家 ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと」



予告編の通り、画家であり写真家である
ソール・ライターがつとつとと喋り
部屋や街中を歩きまわる映像がつづきます。

その中で、網膜に残る色合いの
カラー写真の映像もたくさんでてきます。

言い方がよくないのですが、
カラー写真って、どこか ”薄っぺらい” イメージを
ずっと持っていました。
今回、この映画を観てカラー写真に対する見方が
変わったような気がします。うまく言えませんが。


印象的だったのは、やはり

 人生にとって大切なのは
 何を手に入れるかじゃなく
 何を捨てるかなんだ。

という言葉と
ソール・ライター自身が、
LUMIXやSONYのデジカメを持って
街中を撮影して楽しんでいる姿でした。

何を捨てるかなんだ。といいつつ
部屋の中はすごい状態です。
きっと捨てたのは他のものなのでしょう。

そしてこれだけの写真家の人が
我々が持っているのと同じ普通のデジカメで
背面の液晶を見ながら写真を撮っている姿と笑顔が
本当に楽しそうでした。

今年は、自分も写真撮影をもっと楽しみたいなと思ったのであります。

2016年1月3日日曜日

今年も古本屋 巡ります。

新年一発目は、鎌倉のBooks Mobloさんへ。

Mobloさんの店舗は2階なのですが、
お正月休業中の1階の別店舗スペースに絵本を並べていました。
単に絵本がパラパラと置いてあるだけで無人。
お客様は気に入った絵本があれば、
2階に上っていって代金を払うという仕組み。

で、これがちゃんと機能するところが素晴らしい。
自分が2階の店舗にお邪魔している間にも
1階から絵本を持ってきて購入されていた
お客様がいらっしゃいました。

絵本って、自分が子供の頃にあったものが
今でも結構残っていて、すっごく懐かしかったりします。
子どもたちにも、是非読んでほしいなと想うものの
大人の懐古主義の押し付けにならないようにしなければとも思います。
そのためにも、大人も、もう一度絵本を読むってのは大切なことではないかと。
それにしても、鎌倉の人の多さには驚愕。
鶴八は無論、ちょっと離れた神社仏閣にも
これでもかというほどの
ひと、ひと、ひと、ひと。

小町通りなんて遠目で覗いただけで
ゾッと寒気がするような混み具合でしたよ。
JRの駅員さんも乗降客の整理誘導で殺気立ってました。
とにかくすごいヒトデでした。


下の写真はおまけ。
海老天2尾つきの手打ち蕎麦を食べました。
いつもは駅の立ち食い蕎麦なので(涙)
これはホント美味かったわ〜

2016年1月2日土曜日

読了メモ「思い出のマーニー 」 J・G・ロビンソン


読了。

2016年、最初の読了メモです。
今年もよろしければおつきあいくださいませ。


ところで、このお話は、ジブリで映画にもなった
というのですが記憶にありません。
単に観ていないだけなのですが、
皆さんはご覧になりましたか??


実の親を失い、養父母の元さえも離れて
海辺の町へあずけられることになったアンナという女の子と
そこで知り合ったマーニーという不思議な女の子とのお話です。

前半は、アンナだけで話が進みます。
いつになったらマーニーが出てくるのかと
多少じれったくなりますが、
そこは、不遇なアンナの境遇を
しっかり理解する大事なところです。

ついにマーニーと出会い、一緒に行動を共にする話の中で
察しのいい読み手はおそらく気がつくと思います。
あれ....、もしかしたら......って。


後半になって、一気に謎解きが始まりますが
鍵となるノートの出現で、なんとそこまで遡るのか!と
自分は読みが浅かったことに気づきました。
そして、これまでの小さなモチーフが全てつながってきます。
もちろんミステリーなどではありません。
相手のことを素直に感じとり、正直に生きて愛する人を想う。
ファンタジー作品ですが、ひもといていく話の展開は、
ぞくぞくするくらい感動的です。


「ふしぎなことだけれど、愛されるということが、
わたしたちが成長していくのを助けてくれる
大切な条件の一つなんですよ」

に対して、一番年下の小ちゃな子は、もうおじいちゃんだね
といって笑いあう子どもたちが無邪気で、
そんな純粋な感性が素敵です。


さて、ジブリのアニメ作品の方も探して観ておこうかな。

=================
特装版 思い出のマーニー
ジョーン・G・ロビンソン(訳 松野正子)
岩波書店 2014年

2016年1月1日金曜日

元日の日暮れ


このお正月は喪中という過ごし方をしています。

いつものお正月と同じではない
ということは確かなようですが、
かといって、ではどう過ごしたら良いのか
少々ぎこちないのが正直なところです。

そんなことを感じているうちに
元日もあっという間に日が暮れて行きました。

さて、2016年はどのような年にしていくかな。

2016年 元日の日暮れ